2017年3月7日火曜日

『ピエドラ川のほとりで私は泣いた』パウロ・コエーリョ

四作目。『ピエドラ川のほとりで私は泣いた』パウロ・コエーリョ 訳山川紘矢+山川亜希子 角川文庫

しつこいだろう。これでひとまず落ち着くよ。悲しいかな、手元にある未読のパウロ本が途絶えてしまった。今までの中で最も宗教色が強いかと。
しかし、なんというか、ぼくは無宗教者なのだけれど、「大いなるチカラ」的存在は常に感じながらやってきていて、そういった流れに抗わずにここぞなタイミング(パウロさんは「魔法の瞬間」と表現)を掴む能力においては自分の感覚を昔からずーっとテレビより世間より他人より何よりも非常に信頼していてそのおかげで「今」があって、パウロさんが言っていることの意味が非常によく分かるのだよなあ。
何で?という発言が四冊目だけれど、まだ一度もない。

水について。
修道士『僕たちは水の中で発生し、九ヶ月間、水の中で生活する。水は女性の力のシンボルなのだ。その能力は、男性がどんなに完全な人間であろうと、手にすることができない力なのだ。』

「闇」、「他者」というフレーズがひとつのキー。
それらは=社会的常識・人の目に縛られて抑制している自分。
それらからの解放、つまり、愛のお話。
対比として「心の中の子ども」がいて、それが嘘偽りない自分の心。

ある儀式について書かれていた。

同じ種類のある時間にぼくは飛んでいた。官邸前でtranceした夜のこと。
after 3.11
ぼくらは悲しみと怒り、あらゆる感情を解き放った。ぼくは音になりコンクリを強く踏み鳴らし、呼吸さえも音にしてー笛を吹き続けた。まわりのみんなとは言葉なんて介さずとも(ドラムの音で聞こえないし)目を合わせるだけで何を思っているか互いに完全に分かり合えた。奇跡のような夜だった。
言葉を持つ前、様々な感情を、ぼくらは踊り交わして分かち合っていたにちがいない。
三月の夜は、暑かった。

また、3.11がやってくる。
一年後、叫ぶことしかー踊るくらいしかできなかった。説得力が足りなかった。
六年後、何かひとつくらい形のあるものを守れるようにはなっただろうか。





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