2017年12月14日木曜日

シカを尊敬した日

桃源郷を探しに行ってきた。


どうにかたどり着いた桃源郷(写真は過程)で食べたのは、【ファミリーツリーカフェ】(長沼)のレモンケーキと、ケニアの農薬不使用紅茶。コーヒーは冷えるからね。

店内で食べてもおいしかったけれど、しんどい思いをした後に食べたら、それはもう、
‥like a heaven。
生きてて良かったと思わされる味わい。やさしさというナイフで切ったのであろう、ぼってりと、厚めの切り口。外で凍えるぼくを見越して?あの人はエスパー?ぼくのこと好きなのか?勘違いをしそうにもなる。
何でか、ぼくはレモンケーキが好きだ。

話を戻そう。そろそろ冬の遊びがしたくて仕方がない。
一応スノーシューを準備してみたものの、邪魔なだけ。
雪が足りないぞ、支笏。
ササが隠れきらないので、非常に厄介。道が限られる。どこででも‥行けない。
先人‥、けもの道が頼り。
けもの道を辿っていると、ヤツらが低能だとは思えない。むしろ、尊敬するしかない。彼らの躍動感ある走り方たるや。それに引き替え、自分はなんて面白みのない歩き方なのだろうと敗北感に打ちひしがれる
‥のも、嫌いじゃない。

フレッシュなシカ糞とぼくは自然界において対等。どちらもいつか土に還る。
こざかしいか、やかましいか、臭いか、かわいいかなんて差異は人間界では最重要案件のようであるが、自然界においては些細なこと、どうでもいいのだ。
生き抜く力があるか、ないか、それだけ。上下もクソもない。いや、クソだらけではある。

そこらへんで簡単に死ぬかもしれない状況となる確率がぐんと上がる冬。
ああ、でも、そういった状況を嬉々として受け入れているぼくがいる。

死との距離が近ければ近いほど、生が輝く。
自分の命を自分で握っている感覚。コレを手離すことなく、何より大事に励んでいきたい。

2017年12月11日月曜日

welcome、焙煎


夢中になると、本当にまわりが見えなくなる。
釣りの世界は足を踏み入れたらヤバそうだから、距離を保っている。

自分の癖は分かっているつもりだ。
焙煎も足を踏み入れたらヤバそうだから目をつぶってきた。

しかし、ついに、禁断の果実に手を伸ばしてしまった。


自分で焙煎したコーヒーを先日初めて飲んだ。
専門的にどうたらとかどうでもよく、感動的体験だった。

いつもなら、コーヒー豆を挽くところから始まる工程。
一手間足したら、面倒くさそう?

否。文字どおり「手ごたえ」を手の内に取り戻した喜びったらない。

時間を省くために回る世界は立ち行かないことは今の世界を見ていれば明らか。
後追い自殺などしたくないからぼくは時間をかけていきたい。

小難しいことをいったら手が出ない。
とりあえずやってみよう。

誰でもない自分が焙煎した豆を挽いて淹れる。豆を買い付けて仕入れるという行為以外はすべてぼくの手の内。
「淹れる」だけでは味わえない新しい味。
これは、なんてspecialな経験だろう。
コーヒー。やっぱり最高の嗜好品。



2017年12月7日木曜日

自己満で終わらぬよう


「店」についてよく考える。
店のあり方。雰囲気。方向性。
店員の佇まい。言動、振舞い。距離感のはかり方。
店に行くと考える。嫌な気持ちになるとこう感じさせてはならんのだと改めて思う。
さて、ぼくはどうか?誰もを歓待できているか?

シャッターが開いたのなら、「店」は誰にでも開かれる。
間口の広さ。食べることはカヌーを漕ぐことより多くの人にとって身近だ。

「店」は来るものは拒まず、去るものも追えない。これは店というか商売か。

何かを求めて人は未知なる店の扉に手をかける。何も求めず人は出歩かない。
おっかないけれど、何かに期待してドアは開く。クマ鈴が鳴る。小さな勇気。その気持ちを汲み取ってあげられるようでありたい。これはぼくの理想。
しかし、作業中は邪魔をされたくない。未熟だ。ガンバロウ。

2017年12月5日火曜日

三冬という時間の刻み方

ぼくが氷濤制作二冬目のとき、彼は一冬目。
「一冬だけだから」と、引き気味だった。楽しくなさそうだった。


氷濤エース:どるふぃん。この顔。わはは。
作業中でも手を止めカメラ目線をくれるサービス精神たるや。
ちなみに、これが「氷濤ツナギ」。
かつてはみんな愛用していたホーマック製品である。

ぼくは二冬をここで過ごし、カフェに挑むべく、温泉街へ向かい、三冬目のカフェである。
彼は夏は姿を消したり、一緒に働いたりもしながら、冬は必ずここに帰ってきていた。
どるふぃん、四冬目の氷濤。氷濤のために生きているよね。うん。


写真右上が彼。
ぼくは現場で上にいる彼を知らない。

一日24時間という唯一の公平性。どこに、何のために使うかは誰にも強制できない。

どこに身を置くか、置きたいか。選ばれるんじゃなくて、仕方なくの消去法でなく選ぶこと。
新たな展開を拡げる可能性を孕むのは能動的選択だけ。
楽しむのも苦しむのも、自分次第。
どんな自分でありたいか、全部、自分で決められること。

楽しく働く人を見るのがぼくは好きだから、どるふぃんはじめ、今日はそんな輩を見れてまっこと嬉しい。
ぼくはぼくの土俵で踏ん張るのだ。

やるなら中途半端でなく、どっぷり関わりたい特殊な仕事である。制作こそ氷濤の神髄よな。

2017年12月4日月曜日

満月の夜とたいやきを見直した日


なおき&ほーりー、絶妙なタイミングでアポなし再会。
価値観を共有できる安心感。有り難い。



2017年12月3日日曜日

みぞれ雪、静寂、常連さん


支笏湖、未だ雪なし。


ぬくいとお化けモード。氷濤まつり後半戦的な。

気温が高い。どうにか雨(寒ーい雨ほど最悪なものもない)ではないみぞれ雪の中、「ウィインターカヌークルージング」へ出動。

「冬に来る人なんているんですか?」

『いやあ、夏に比べると少ないですよ。でも、たまに変わった人がきてくれますよ。‥ね。』

わはは。パドルクエスト語的に「ウィットに富んでいる」かは分からないけれど、冗談交わしながら他愛もない会話。
行間を読み合う。これこそがコミュニケーションの醍醐味よなあ。駆け引きと探り合い。生のコミュニケーション以外はしたくない。と言いながら毎日ブログを書く矛盾。ぼくは何だろう。思考整理術兼誰かの暇つぶしになれば一石二鳥ということで。

「本当に静かですね。いいなあ。現実に帰りたくないなあ。」

雪もない、葉っぱもない。ないない尽くしに見える今の支笏でも、お客さんが持ち帰ってくれたものは少なくないように感じる。
「何にもない」って意外と手に入らない贅沢なんだよなあ。「寂しい」って片付けるのは誰でもできるし、勿体ない。
自分なりの宝物を見つけられるかどうかは、心持次第。見つけたいと願う人だけ。

寒くても手袋は履きたくないのだが、さすがに限界だなあ。手、赤。

店に戻ると程なく、昨日来てくれたカフェのお客さまがお待ちかね。
人気者は辛いぜ。求められる内が華よね。貧乏性。

カヌーもカフェもぼくはとても楽しい。自分を殺す必要がない。今の自分にできることで稼ぐ。簡素で良い。
苦しいときもそりゃあるけれど、楽しみたくて生きている。

勿論、売上うんたらってのも無視はできないことだけれど、お金のことを考えすぎると「しなければ」という義務になる。義務を負うほどエネルギーみなぎる人もいるがぼくは逆だ。
金に思考を占領されないように。強大な宗教でそれを無視することはそうできないわけだけれど。
やらされる、やらなければならないことほど退屈なことはない。純粋に楽しむことを忘れたら遊びを仕事にする人間の先はない。発端も狙いも金じゃないのだ。金であったらそもそもカヌーを選んでいない。金が欲しいなら最も実はお高い自分の時間を街に差し出せばいい。金はあくまで社会システムに乗っ取る上での手段。金よりお高い人生なのだ。
「稼がねば」、より、「楽しまねば」という情熱こそが人を巻きこんでいくはずなんだよね。

好きなことで暮らす本当の意味を考えるには夏より断然冬なのだ。

2017年12月2日土曜日

チーズケーキとカヌーと氷濤と、人

【おいしい】の唄
おいしいっていうのは際限ない
おいしいをもっとおいしくするためには‥

楽しいっていうのも際限ない
楽しいをもっと楽しくするためには‥


ぶつくさと
あーでもないこーでもない
思考が栄養

なにができるだろう
どこまでたどり着けるだろう

誰かのおいしいを味わって拡がる世界
自分のおいしい

増やすも減らすも深めるも諦めるも
ご自由にどうぞ


舌と心が喜ぶものを取りこんだなら
なんだか新しい世界を生み落とせそうな最高の気分さ





夕日を写していると座敷童が映った。

複合的にあれこれ考えると、脳みそが止まる。キレのないふにゃふにゃ踊り。
自分で言うけれど、たったひとつのことを突き詰めさせると能力を発揮する。偏向性、狭さだけが深まるための武器である。好きだけ選んでこうなった。
なんせ、器用じゃない。

手を出すなら本気でないと。本気になれることだけ選んでやってきた。
手を抜くなら、最初から手を出さない方がマシ。
試されるよな、冬には毎度。