2016年11月30日水曜日

17日に再開してから毎日店で過ごした11月

季節の移ろいに合わせてぼくらの働き方も変わる。

ぼくはカヌーガイドからカフェ隊長に転じる。
半年のブランク。
接客の仕方が変わる。稼ぐ場所も武器も持ち替える。頭も切り替える。人が減る。

ケーキつくるのかあ。つくれるのかなあ。ダンドリどうしていたっけ。

とりあえず、やっていくうちに、どんどん思い出して勘を取り戻してきたこの二週間。
店での在り方がどうもぎこちないのは相変わらずだが、それがまた味だろうと信じる。

何もない所から生み出す苦しみに比べたら、前例をなぞること等容易いことだった。

去年の今頃は、本当に必死だった。苦しかった。心細かった。
そりゃそうだ。やったことのないことで冬を越えてやろうとしていたのだから。

そのおかげで、今のぼくがいる。

去年のぼくにありがとうと伝えたい。



2016年4月2日 尻別川。この頃は緊張感もあり、目の前で起こる出来事すべてに一生懸命なかわいい新人君なのであった。


2016年11月29日火曜日

なんてコーヒー

「葉が落ちてから雪が降るまで」の間はどうしてこう長いのだろう。


(東山からは溶岩ドームがカッコ良いが、西山からも好き。photo by chika.O)


熱ければいいだけのコーヒーなんて。
薄ければいいだけのコーヒーなんて。
苦ければいいだけのコーヒーなんて。





2016年11月27日日曜日

素晴らしい世界を見たい

成長痛。
ついつい、ないものや、手離したものに心が向きかける。
前を向けばいいのだ。分かっている。新しい乗り物はまずは乗りこなせるまでが一勝負。しかし、さらなる勝負はその次。
乗りこなせるようになったらその先が見えてくるはずで。見えないことはできない。イメージのない人間の軌跡は華麗ではない。

photo by YOSHIHIRO.H
10月の紋別岳にて。

精神的な余裕が生まれたとき、さらなる高みへの足掻きが始まる。
二冬目の店。

例えば、恋人ができると、この人と一生…と思う。思うのに、何度か別れは唐突だったり、自然と訪れる。回復には付き合った年月がかかる。
年を重ねる度、恋をすればするほど、自分の気持ちが信用し難いものになっていく気がする。

「大人の方が 恋はせつない」
ドリカム『もしも雪なら』より。

新しい恋に落ちたとき、それまでに恋した人たちから「嘘つき」「あんなに好きだと言ってたじゃない」と責められているような気がしてしまい、「ま、まだ、恋に落ちてはいないかも…しれな、い…」と本当は既に恋をしているのに、事実を湾曲させて言い訳がましくなったりする。裏切ったわけではないはずだのに、なんでか要らない後ろめたさが発生することがある。

そのときは本当の気持ちで向きあったのは間違いない。しかし、それはそれ、今は今なのだ。そう、潔くいきたいのは理想。

実際には難しく、どこかに罪悪感や申し訳ない気持ちがなくなることはなく、羽ばたきたがるぼくの足首は常に過去に掴まれているような感覚に陥りがちだ。
等身大の自分はなんて情けなく、未熟だろうか。ため息が出る。
鼓舞するためにこうして書くしか処方箋はなし。

誰の跡も追わずに生きてきたぼくの場所にはぼくしかいない。
分かってやれるのは、目撃者はぼくだけだ。

ぼくはぼくに倣う。

毎日ヒリヒリしながら、たまに冷や汗をかきつつ、好きなことで稼ぐ。淡々と。何でもないように。暑苦しさは必要なときだけ提供する。
人が押し寄せたとき、頼るのは自分。

思い煩っても無益な過去にはおさらばして、さらにその先へ。
脱ないものねだり、脱ひきずり太郎。
毎日は静かながら申し分なくスリリングで、それをぼくはいたく気に入っているのだから。もうここからは解放へ向かうのだ。

最後は瀬戸内寂聴さんの言葉で締めます。

もし、人より素晴らしい世界を見よう、
そこにある宝にめぐり逢おうとするなら、
どうしたって危険な道、
恐い道を歩かねばなりません。
そういう道を求めて歩くのが、
才能に賭ける人の心構えなのです。







2016年11月25日金曜日

ラフでない言葉遣い

夏も冬も言葉遣いについてよく考える。
自分の口癖や人の口癖については毎年なおきさんとの会話の話題となる。
意識してはいてもついつい使いすぎてしまう言葉というのが人それぞれにどうしてもある。
小さなストレスが積み重なることで、お客さんのecstasyが遠のいていく。ぼくらは、いや、少なくともぼくは気持ちよさそうな人の顔を見るのが好きだ。まずは意識するところから始まる。

きれいな言葉を使う人が男女問わず好きだ。言葉を適当に扱う人は、なんだか信用ならない。汚い言葉はその人を汚く見せてしまう気がする。言葉は人の影みたいなものだ。

「かしこまりました」は去年、陸の接客先輩であるふっくんに学んだ。

丁寧だけれど上品すぎず、誠実だけれどフランク。そんな絶妙な曖昧ラインを手探りしている今日この頃。


チャンスがあれば、求められれば、やはり、ついつい喋りすぎる。お喋り野郎共のことを言えない。
内容は専ら、支笏湖の美しさ、カヌーの面白さ、氷濤まつり制作側の思い、の三つに尽きる。
伝えたいものがぼくには確かにある。

カフェはカヌーツアーよりずっとずっと敷居が低い。カヌーも支笏湖のこともよく知らない人が間違ってぼくらのお店に入ってくる。しめたものだ。

ツアーに間違って参加する人はいない。稀にいるが。
間口は広いに越したことがない。

ぼくらの世界は素晴らしい。

photo by NAOKI.M

二年前の11月は沙流川にいて、氷濤制作二冬目を待ち構えていた。

2016年11月24日木曜日

「また食べたい」と言われる意味は「また食べたい」と思わされる度に増していく

今日も好天。寒い。

去年の今頃は、カフェ準備の真っ最中であった。たった去年。
周囲には「大丈夫なのか?」と言われまくっていた。新しいことを始めようとすると周囲はいつも無責任に不安を煽る。
どこか外に修行にでも出た方がいいような気持ちにもなり、お気に入りの店の求人情報を漁ったりもした。
しかし、不安と同居するようにして、もうひとつ、どこから湧いてくるのか分からない根拠のない自信もあった。今の自分にならできる気がしていた。できないことは何もないと、ようやっと荷物を背負ってみたくもあったぼくの気概は柄にもなく満ち満ちていた。タイミングというのは妙なモノで、それが一昨年でも、今年でも噛み合うことはなかっただろう。
背負えるようになるには、まず委ねてもらわないことには始まりもしない、という事実も数年前に学んでいたのでその意味も重々分かっていた。人はどうでも仕事は裏切らない。

根拠のない自信を深めてくれたのはにんじんケーキ考案者のなお大先生であった。


(新宿三丁目の博多天神。酔っ払いの帰り道はここ。替え玉一杯無料で500円。)

五年、毎日ツアーでやってきたことを、湖畔でのカフェを陸に持っていくだけ。
誰の真似もする必要はないこと。ぼくらにはぼくらのスタイルが既に確立されているのだから、と。

去年があるかないかでこうも違うものか。そんなことを思い知らされながら淡々と、コツコツとやるべきことから手をつけては明日につなげていく日々。遠くには単管の音が響いた。

2016年11月23日水曜日

カヌーからのコーヒー

氷濤制作陣、お休み。
午前。久々ツアーへ出動すべく、着ぶくれ化。
今日は寒いぞ。【モンベル】のウールアンダー(厚手)に早くも手を出す。
こんなことでは真冬はどうしたらいいのだろう。いやはや、今年の11月は寒いどー。


忘れ物かな、落し物かな。カヌーガイド兼氷濤制作陣・なおき隊長に休みはなし。


赤いお宝を探しながら。


寒いは寒いで、また新たな美しさのドアが開いた。

午後からはしれーっとカフェモード。
誰も気付かないであろうけれど、自分にとっては目から鱗の新発見を今日もひとつ。
地味にふっくんを召喚したくなる、そういえばの祝日・黄昏時なのであった。

2016年11月22日火曜日

小上がり、なくなりました

本日もほぼ凪のナイスコンディションの中、久々ほーりーによるインターナショナルツアー。
風がないとあたたかい。
雪が降るかどうかの微妙な時期、日本人はひっそりお家に潜んでいるのだろうか。静寂の支笏湖温泉街。秋に豊作の宴をさせてくれた目の前の栗の木の葉はしぶとくまだ落ち切らない。「冬やで!」と毎朝声掛けをしているのだがなあ。

気に入った店に通う側から待つ身になって初めて、その気持ちがわかるような。
いつもそこに行けば会える。
いつ来てもいいように場所を守ること。何でもないようで、何でもなくないんだよなあ、これが。
待っていないようで待ってくれていたんだろうなあ、これが。駆け引きだよなあ。疑似恋愛だよなあ。気持ちは大事だけれど、あまり重たすぎるとお互いのためにはならないこともある。

季節に応じて店の使い方がガラリと変わる【かのあ】店内。これほど変化の大きい店もそうない気がする。生き物みたい。


制作者の手により、今年は小上がりを解体することとなった。

ひぃ

 ふぅ


みぃ

‥やあ!!

2016年11月21日月曜日

車中コミュニケーション


パッパラーごろうは元気そうだった。誰やねん。
氷濤はフレッシャーズだらけになったらしい。曲者が今や天然記念物、か。まさ⭕さん、え⭕さん、た⭕さん、に⭕ちゃん、…古き体制の最後をぼくは見届けたんだろう。さらば、お下劣な下ネタのエンドレスリピート。まわるまわるよ時代は何とやら。ミスチルのクロスロードも良し。アンバランスで、どこか足りなくて。でもだからこそ、そこにはゆるしあう、現代社会が置き去りにした人類愛があったような気がする。


久しぶりに鹿児島んちゅ・ほり先生登場。
なおきさんと二人、九州話で盛り上がる。
ああ、なんだか懐かしいなあと、横やりを入れつつ、コーヒーも淹れる。

普通を忌み嫌い、人のいない道ばかりに吸い寄せられて歩いてきた。あるとき、ふと、普通に憧れている気持ちから目を背けて、ただ、逃げてきただけだったのかな、という気が猛烈にしてきた時期がある。
これからのことを現実的に考え出した頃。カヌー→氷濤→カヌー→氷濤→カヌー→…潮時なのか?と。
しかし、結局、実際、それは、人目や常識、普通宗教を植え付けられつつあっただけで、ぼくはやはり、先天的反普通派であり、普通になれるはずもなく、なりたいとも本気で思ったわけではなかったのだ。誰かのために自分を偽ることは、ぼくにはできなかった、したくなかった。悩んでいる風で、実際に自分の心を手離す気なんてさらさらなかったのだろう。誰かのために、は偽善だ。誰かのせい、も嫌いだ。やるもやらないも情熱だけだと思う。火が弱いとお湯は沸かない。

そんなことを話しながら、閉店後の買い出し。


2016年11月20日日曜日

冬は毒づかない

雨が少し降ってはいるものの気温は高く寒くはない有り難い朝。
「お久しぶりです!」

‥?

‥!!!
(なおき隊長の脳内の動き)

湖で漕いだお客さんが今度は千歳川に戻ってきてくれた。
ということで、「千歳川ダウンリバーなおきSP」にいってらっしゃい後、ちょっといつもより遅れてCAFE CANOA オープン。

人と人の「間」に挟まれる人間の常なのだろう。【かのあ】は皆、まあ、一人見た目はお兄さんなおじさん(リップサービスリップサービス)が混じってはいるけれど、代表含め比較的若めな集まりだから、それぞれに、自分の人生にどうにか食らいついていることもあり、夏はお客さんどころか内部のあれこれで既に満腹になっているところがある。満腹どころか、出てしまいそう。いや、出てたな、きっと。

夏とは打って変わって、やさしい気持ちでお客さんと向き合えるのは冬ならでは。
年中、人との距離感だったり、息づかい等、喋る技術を維持・向上する現場に立っていられるのは、人への好奇心が多分、一般的なそれより過剰なぼくにとって幸運なことだろう。


夜が長ーい東京。人気もまばらな千駄ヶ谷にて嬉しいサプライズがあった。
好きな人の好きな人がイマイチなはずがないんだよなあ。
形があろうがなかろうが、名前なんかつけようがつけなかろうが、そんなことはどうだっていい。
人と人との間にあるものはその人ごとに全部ちがうんだから、ひとつの言葉で説明できるほど単純じゃない。
思えば、まあ、ぼくがカヌーを漕いでいるから当然?いや、当然ではない。
その夜ここに出くわした人はみんな、支笏湖でカヌーに乗っている。こんな街で。六人も。I wonder‥奇跡的じゃnight!

みんな笑顔でありますように。

2013年春のアースデーとか高尾山を思い出させる人との再会が今秋は続いた。
早いもので実に濃厚であった。

2013年ちゃらんぽらん。2014年普通と異常の境。2015年責任と新境地。2016年自信とその先。
いつも、ここから。これからがもっと面白くなっていくんだろう。

2016年11月19日土曜日

お洒落は足元かららしい

朝から凪。素晴らしい日にツアーがあるのは最高。なおきツアーを見送る。漕ぎ出したい気持ちを落ち着かせる。今日漕がずにいつ漕ぐか、そんな小春日和。

髪は整えた。
さて、ぬくぬくインドアーズとしては、店での日々をより良いものにしていくためのニューアイテムを導入。


29歳記念に頂いたのは、BIRKENSTOCKのBOSTON。
SP thanks.
毎日使うものなだけに、これは嬉しい。

今まで使っていたコロンビアのサンダルはデザインは好みだったが、帰宅後足首に違和が残った。へたるのも早かった。

履き心地も段違いのこいつとなら長い付き合いができそうだ。
ぼくは長く使えるものが好きだ。別れはなるだけなら味わいたくないし、別れ方なんざ知らない。
飽きられるまで、呆れられるまで、愛し切りたい。
よろしくな、相棒!


2016年11月18日金曜日

質素がいちばん おにぎり論

派手派手しく着飾った食事もいいけれど、心にも胃腸にもやさしいのがいちばん。


photo by Chika.O

米は【ユニフレーム】のライスクッカーで炊く。
気持ちの問題だろうか。美味しいのだよなあ。ぼくはシンプルな【ユニフレーム】製品が非常に好きだ。
来客者は皆、炊飯器ではないことに驚く。タイマーはぼくだ。


遠出をする日の朝には、おにぎりがないといけない。
海苔はなくても良い。具には、梅干し(紀州南高梅、酸っぱすぎないはちみつ梅が好み)か、かつお節か、しょうゆ漬けにでもした鮭が良い。
豪華にも梅干しとかつお節の合わせ技を決めることもある。【サーモス】のスープマグに味噌汁が入れば、もうこれ以上他に何もいらない。味噌汁の具はなくてもよい。箸を忘れ、指で掻き出すことになりがちだから。いや、卵焼きがあってくれても良い。漬物も一口。

潔癖症づいている昨今では、何やら他人が直接手で握ったおにぎりは食べられないという新人類も参上しているとかいないとか。他人どころか恋人のつくったものですら受け付けない方もいらっしゃるとかいないとか。

愚かな時代だ。逆に「不」衛生だ。
ぼくは嬉しい。めちゃくちゃ嬉しい。お店ではお金を払いさえすれば、自分のためのコーヒーが出てくる。それも素晴らしい。お金で健全なぬくもりを買うのは素晴らしいことだ。お金をもらうから背筋が伸びて高まっていける。
しかし、お金を介さず、誰かが自分のためにただただ淹れてくれるコーヒーは訳もなく美味しい気がしてしまうのも確か。大事なのは味じゃないのだよね、気持ちを頂くのだ。

「おにぎり」の「お」は、「おふくろ」の「お」から始まり、いつしか「己」の「お」に転じるものであるらしいことに気付いてしまったのは去年のこと。衝撃的失望感を味わいつつ、ぼくはメゲずにおにぎりを握り続けた。

人生が終わるとき、誰かにおにぎりについて問われる機会でもあったなら、
『「おにぎり」の「お」は、ひとりぼっちの「己」ではなく、「お互い様」の「お」なんやで』と笑って周囲に希望を抱かせつつ死ねたら本望。

2016年11月17日木曜日

冬カフェのはじまり、31歳

なおきさんが31歳になった。2シーズン目のカフェがオープンした。めでたい日。久しぶりにふっくんの顔を見た。

お店の受話器越しになおきさん宛てのハッピーバースデーの電話をなぜか最後まで拝聴するというアンビリーバボーな初体験は、ここだけの秘密に‥できそうもありませんが頑張ります。

『‥いや、だから、ち、ちがうって!!』
ぼくの心からの叫びは熱唱中の相手に一切届くことはなかった。

そんなこんなで今日から春まで物理的にはだいたいひとりで気張ってます@CAFE CANOA。


photo by Chika.O 10月の宇宙登山。

食べることも街も山も愛も、全部同じ世界に乱立している。混乱せず、目を背けることもなく、頷けるくらいにはなった気がする。随分と時間がかかるが仕方がない。
それぞれの世界をつなげられるのは、人間だけ。単体として在る点を線でつなぐのはぼくらの行動だけ、足だけ。

2016年11月16日水曜日

味覚革命「エッセンベルク」

氷濤マン2017、本日より本格始動。

2016年2月26日「新宿駅最後の小さなお店ベルク」井野朋也著(ちくま文庫)読了。

必死になってカフェを回した怒濤の冬を越え、右も左も分からないなりに(湖畔で五年お客さまをもてなしてはきたけれど)突入した「飲食」という新たな世界は、同じ接客ではあるけれどさすがに水上とは一線を画すようでおっかなくてたまらなかった。屋根があるとどうも息苦しくて仕方がない。しかし、非常にexcitingな経験であった。一体全体「飲食」というのはどういう雰囲気なのだろう。
春になり、すべてが一段落した頃、身体ではなく言葉として「飲食」という世界を知りたくなったとき、ちょうどこの本に出会った。

その日から、ぼくはベルクに恋をした。

結局、生まれ育った「新宿」の手の内で弄ばれているだけかもしれない、と苦笑。

好きな人には会いに行きたい。

九ヶ月蒸らした恋。蒸らしすぎたコーヒーはいけないが、店への片思いは悪くない。
会えない時間が気持ちをどこまでも高めてくれる。

新宿ベルク、ランチ限定780円のコース料理。「エッセンベルク」。


30種類の食材。
この豆のスープはナンダ。何て言えばいいのか分からない、今まで飲んだことのないスープ。これが迫川副店長曰くの「ゆらぎ」なのかなあ。
ベルク本で何度も味を想像したけれど、イマイチ鮮明な味が見つからなかった「ポークアスピック」(写真中央)。これもまた、絶妙すぎる。

味覚がこれほど脳みそに刺激を与えるワンプレートというのもそうない。
食べるは宇宙。
「濃い=美味しい」が世の中まかり通っている風がある昨今にあって、すべてにおいて『寸止め』な味がどれもこれにも決まっていた。
一日1500人が来る店で、この味を決めるか。今のぼくには無理だ。きっと、立ち止まれない。不安で。イってしまう。イキすぎてしまうに決まっている。
覚悟。潔さ。これがベルクか。


新宿、すっっげー!!さすが!!リスペクト!!!!
ぼくの生まれ育った街には、たいした山も湖も川もないけれど、ベルクがあるぞ。どどーん。

2016年11月15日火曜日

首都高

暑さを一ミリだって感じない気温に帰る。夢のような数日が確かであることは今回は確実。
夢から夢へ帰る。


最近支笏でよく話題に出ていた「首都高」。

‥カーチェイスか!

人も場所も物事はすべて多面体であり、一点にのみ留まっていると、嫌でも、意識してはいても、その場に馴染むように人はできている。慣れ。これが人の最大の長所にして短所。

その場での「当たり前」はどの程度他の場所で通用するのか、本当に「当たり前」なのか?世間の多数決の結果はどうでも、どちらが自分には快適か?
自分の心を見失いたくない。誰にも惑わされたくない。「暮らし」でinsideをとことんまで掘り下げて、「旅」は手足も思考もoutside。
電車に乗った途端、声のトーンを気にし出す自分に気付く。普段いかに声量を気にせず唄えているかを知り、健やかに笑えている日々に感謝と共に、場所や雰囲気に思いっきり飲まれて感応してしまう自分に若干の失望。

どちらも大事。バランスバランス。しかし、どの世界も等しく狂っていることを目の当たりにした気がする。
ぼくら人間は狂っている。それも当然。というか、狂った世界において、むしろ、それが健全かもしらん。

「あえん」はやさしい


食と人の二本立て。ここ数日。
会えない距離を埋めるべく、とにかく毎日人に会った。むさぼるように。今のぼくの日々の暮らしの中には、「友人」というカテゴリーは皆無。やりたいことありきで湖にたどり着いたわけで、惑わされることなくカヌーに、仕事に最大集中できる素晴らしい環境に身を置いていられるのだが、欲張りなぼくとしては、機知に富んだ会話はどんな娯楽よりやはり面白く、ああ、ぼくはやはり人が好きでたまらず、勿論誰でもいいわけではなく、東京にはしがらみや建前立場なんて何にも気にせず何でも言い合える大切な人がたくさんいることもやはり確かな事実であって。世捨て人のようなやせ我慢はやめよう。
会いたい人には会いに行くし、食べたいものは食べに行こう。何にもとらわれずにフットワークは軽く。
愛は伝えるために在る。そう、素直に今は思えるとです。フラットな関係は良いことずくめだ。

静かな湖での日常。刺激的な街での逢瀬。
どちらでも動く好奇心。しかし、夜の街ではやはり雑魚。
咀嚼したいが、その前にカフェが始まる。のんびり考えていきたい。

新しい東京の味は、オタク気質のこだわりチャリダーに教わった。
モンマスティー(千駄ヶ谷)のミルクティー。アイスの味の決まり方たるや半端ない。これが支笏で飲めるならお金払う。飲みながらまた飲みたいと思った。
取り払っていたやるべきことを脳内でイメージし始めた。

また会うときにも自信を持って対峙していたいから、日常を変わらずに丁寧に生きよう。そろそろ刺すような空気が恋しい。
会えなかった人にはまた今度、もっと面白い土産話を携えて会いに行こう。


2016年11月13日日曜日

山女の結婚


昼から夜からきれいなご飯を食べまくった一日。

去年の秋、二年帰らずにいたことに気づき、愛想ふりまきに行くかと帰京した際、直接二人の口からそれぞれの恋人と入籍するということ、結婚式をいつ頃に挙げるという報を受けた。メールでも電話でもなく、直接、あなたたちの口から、ぼくらの耳。虫の知らせ。この報を受けるためにぼくは珍しく冠婚葬祭でもない時期に帰ったんだな、と。
嬉しかった。会えるから言わないでくれていたこと。いつも会えない距離がどうしたってある。そのおかげで、大切な人が誰か、見失わずに済むのも確か。
ぼくの友人たちは皆素晴らしく魅力的。ぼくの友だちだもの、当たり前。魅力的でなければ、友だちは続かない、どんな関係性も恋がなければ、深まるものも始まることもない。
本当の理解者がじょじょに現れつつある時代に突入だ。
八月のは無理だ。ごめん。でも十一月なら最適。行くよ。誘って。本当に?
photo by T.S

心配の種がひとつ、減った、寂しさと喜びの健やかな同居。
ヘタクソな時代を共有した友がちゃんと女の子であったことを初めて知った、とびきりの笑顔。きれいだよ。ばかやろ、これが泣かずにいれるか。
ぼくらはやっぱり、幸せになるべくして生まれたんだなあ。
最後に残るものはありがとうだけ。
実のところ、心配しつつも救われていたのはぼくのほうだったのかもしれない。
もうやめよう。手紙を書こう。

夏も冬も激闘の中にいるため泣く泣く誘いを断ることが多い「結婚式」。
すずきさんと話していたら、そういえばそうか。なおきなおさんの結婚式ぶりだなあ。あのときは東京から札幌に向かい、今回は千歳から東京。どっちも大事な場所であることは何ら変わらない。

2016年11月11日金曜日

夢の味


文章で何度も咀嚼した夢の味をついに自分の舌にとらえた。
すぐに食べに行けないもどかしさがまた良かった。

昨日も今日もやっぱりできるならばできるだけ手を取りたいのは、どちらともなく。一緒にいるのがごくごく自然なんだろう、会わない間を埋めるかのように求め合う姉妹。背景が違うだけ、やり取りは変わらない。間に流れる一貫した空気感だけが、ここをどこにでも変える。家族。
素面で大事なことを話し合える間柄。健やかで良し。さらけ出す。誰にでもする必要はない。分かってほしい人、分かってくれるであろう人に最高の時期に出会う幸運とは。
素直がいちばん。言うは易し行うは難し。
深い悲しみや絶望、孤独。しかし、そこから、偉大なる愛が生まれる。
へろへろもへじ。

何にせよ、すべては過ぎ去る。何でも笑い飛ばすのが最良。

絵本の中から飛び出して


何にも変わらない人。何だか縮こまる人。場所に飲まれない人、酒に呑まれる人。頼もしさはなんだろう。
生かさず殺さず、最もいやらしい都市。
人並みなんか苦手だけれどへっちゃら。
今日までのダイジェストを久しぶりに報告し合う。積み重ねてどうにか逃げずにやってきて良かった。息つく間もなく感性で語らう夜。
酔っぱらいの帰り道。いつも吸い寄せられるまばゆく光る黄色い灯り。替え玉一杯無料。普段なら敬遠するようなラーメンがどうしてか何度も繰り返したこの懐かしきルーティンがたまらない。なんだろう、なんでだろう。泣きたくなるほど外さないいつもの味だった。
変わり果てた、変わり果て行く駅周辺。くだらなさすぎると背中を向けてすたこらさっさと三丁目を歩けば一気に、ようやっとアウェーがホーム化し、いつかの自分とひとつになれたらしい事実に、胸をなでおろす。
忘れることなんてできないんだ。意地を張るしかないだけで、忘れたくなんかないんだから。全部引きずって、すべてが同じ時空に在る不思議を、何をしている自分自身を、戸惑うでもなく、何が良し悪しでもなく、ただただあるがままに許容できるようにはなったのかもしれない。

2016年11月9日水曜日

to be continue

千歳川でツアーをしたいなあと、誰にいうでもなく心の内でぼんやりと夢を見始めた三年前。


それまでは、ひとりでひたすら、暇さえあれば家から歩いて三十秒のこの川で遊んでいた。
だんだんと、一人占めしているだけでは物足りなさや勿体なさを感じるようになっていった。
美しいものは大切な人に見せてあげたい。
実験するかのように、三年前の秋、はまだくんをこの川に誘った。


(セルフタイマーも釣り吉には一切関係なかった。)

秋の夕方に漕ぎ始めた浅はかなぼくは、迫る夜に飲み込まれないようにとやむなくゴールをここにした。
というわけで、今年は三年前のゴールをスタートとした。お散歩のように気軽な時間が流れた。

「漕ぐのうまくなったでしょ?」

きっと、三年前の心もとない操船技術と比べていたのだろう。
カヌーのことをさして知らない男でも、当時の未熟な腕前はバレていたのだなあ。さぞかし、不安定でおっかなかったであろうことは容易に想像がつく。
遠いようで実はとても近い。16フィートの距離感って、本当に絶妙。三年前は15フィートだったしなあ。

ガイドとしての核は、技術の前に、溢れる思い。伝えたいものがあるかどうか。伝えたいがために腕を磨いていく。うまくなりたいのは、伝えたいものがあるからで、伝えたい人が頭にスッと浮かぶからで。
カヌー一筋とは言えない、よこしまガイドとして思うガイド観。

ある日、意を決して、なおきさんに千歳川でツアーをやりたいと気持ちを告げた。
その思いはかなり高ぶっていて、返事がどうでもやってやれと考えていた。
すると、その男は、ニタリと笑い、既にそのツアーを実行するための道具の入手に着手していた。

やられた。いつも、ぼくがやりたいことの二歩先にいる。
【かのあ】のやりたいことや目指したいところは、面白いくらいにぼく個人の興味関心の向かう先と一致し続けている。

いつも、新しいツアーは自分を育ててくれる。

2016年11月8日火曜日

「BABY&PEACE」編集長の接待

10月某日。三度目の来道。お気に入りの場所にて。



「世界中で謳われる“LOVE&PEACE”
それもいいけど
世界中にある曖昧な“LOVE”“愛”より
目の前の可愛い“君”“BABY”を大切にしたい」

「BABY&PAEACE」というのは、はまだくんが好きなものを好きだと告白し続けるためのラブレターのようなフリーペーパー、である。
ぼくの【まちゅ★ぴちゅ】はフリーペーパーではない。


先日、小さな最新号が届いた。感想については勿体ぶることにする。

「あきらめなかったから 僕は君と再会できた」

説得力のある本当の表現は、本当の表現者は、暮らしの中からしか生まれず、暮らしの中にしかいない。
ぼくらはみな、表現者。芸術はお高くなんかない。息をするように、誰もが紡ぐもの。
書くことは生きること。

足りないくらいがちょうどいい


2016.11.6 けあらし立ち上る支笏。
こんな瞬間に出会えてしまうから、年々、ここから離れがたくなっていく。自分の心にこれほど訴えかけてくる美しさに出会えたぼくは幸運だ。カヌーはあなたに向かうための道具だったんだろう。

荘厳。神聖。どんな言葉もちゃっちくなる気がして。
大切なことは体温で伝えるより他にない。

使う道具、ダンドリ、勘…あれこれを取り戻して準備中の店での日々。
去年必死につくりあげたおかげ。なぞってみて改めて去年の自分の心模様を知る。ただただ、ありがとう。

束の間帰ってきた松澤家。
みんなそれぞれにやりたいことや大事にしたいこと、これからのこと、様々な思考を店に置いていく。ここには、可能性の芽があちこちに転がっている。
季節の変わり目は、インプットもアウトプットも忙しい。

11/16から氷濤制作が始まる。
なおさんの誕生日に閉めたカフェは11/17、いいいな、のなおき日に再オープンさせようと今日決めた。


2016年11月4日金曜日

カヌーってなんでこんなに面白いんだろう

久しぶりの流水が、ぼくの中の「何か」に強く訴えかけてきた。


初めて水の上に漕ぎ出したときのことをぼくはよく覚えている。
ただただ漂うのがたまらなく好きで。水とひとつにとけあう天国のような境地にイケる瞬間があることをぼくは知ってしまっている。
幸せを感じる線がきっとぼくは一般のそれよりだいぶ低いところにあるのだろう。とにかく、浮いているだけで満ち足りる。それ以上を求めるなんて贅沢すぎやしないか、と。
思いっきり気持ち良くなるために、感じまくるために、快楽のためにのみ最大集中したい。

そんなわけで全く興味を持たず・持てず、熱する気配のなかった「サーフィン」にようやっと、どういう風の吹き回しか、突如として好奇心が疼き始めた2017。意外や意外、である。

きっとそれは、間違いなく冬の陸(おか)、コーヒーのおかげなんだと思う。

水の上にいることが長らく当たり前になりすぎていて、それが幸せであることを、陸への感謝の念をぼくはすっかり忘れていた。

コーヒーだけでは駄目で、カヌーだけでも駄目で、どちらかだけでは物足りないし愚かなぼくはきっとまた勘違いをしてしまう。

きっと、ぼくにはふたつはひとつ、ふたつでひとつ、なんだよなあ。


上下や優劣はない。ぼくらは皆、素晴らしい、ということを今回の人生でぼくは表現し切りたい。

どちらにおいても中途半端でなく、ブッ飛んだ表現者、という前例をぼくは他に知らないので誰の真似もせずに、それになろうと思う。ぼくは不器用だ。不器用なまま、どこまで行けるだろう。

思考が整理されていく。お付き合いありがとうございます。

カヌーが好きになればなるほど、コーヒーが愛おしくなり、
コーヒーを好きになればなるほど、カヌーが愛おしくてたまらなくなる。

馴れ合わずに高まり合うこと。相乗効果。
憧れるのもつくりたい関係性も守りたいのも、カヌーとコーヒーのような間柄だけ。
それ以外は全部捨て去って、これからさらに身軽になっていくんだろう。

2016年11月3日木曜日

turned 29

気温が高いため、べちゃ雪。

木々が色づき終わる頃、またひとつ、年を重ねた。
今までより、去年の自分より、今のぼくが好きで、もっと好きになれるはずで。なりたいわけで。それを更新し続けていきたいわけで。
もっともっと面白くなっていく予感しかしなくて。

誕生日プレゼントは年中受付中ですのでご安心あれ。

ええ、まあ、海鮮大国・北海道ですからね。ケーキといえばこれが主流です。



ということで、秋といえば、栗。サケ。
栗ごはん、サケフライ。ちびっこたち。私設美容室。かわいいゲストに浮つく野郎共。料理上手は片付け上手。一番しっくりくるコーヒー。タイヤ交換。

冬に向かって、錆びついているカフェスキルを取り戻そう。
‥い、イラシャイマヘ?!!

2016年11月2日水曜日

カヌーも凍る鵡川


photo by NAOKI.M

夏の終わりの胃腸炎により機を逃したぼくは千歳川をノーカンとすれば、久々のダウンリバー。
外で笑えるって、どうしてこう気持ち良いのだろう。

記憶にも記録にも残る素晴らしきファーストダウンリバーに乾杯。