2013年5月7日火曜日

水を得た魚@千歳川

今シーズン初、千歳川。

‥GoriちゃんからのNikonだから、‥「Gorikon」の出番じゃ!


風は強いけれど、相変わらず寒いけれど、日差しは出てきました。


ようやく会えました。今年もよろしくお願いします!
千歳名物、頑固爺さんブログはこちら→頑固爺さんのブログ


川の流れを読む。どこを目指すかを決める。イメージ通りにカヌーが動いてくれるか、とりあえず漕いでみる。イメージと実際の動きとのギャップを埋めていく。心と身体をひとつにしていく。
‥僕の解釈です、あい。



naokiさんの美しい漕ぎっぷりを見つめる工藤氏。真剣です。


カヌーって、そそります。いちいち、絵になる。

やっぱりタムロンのレンズ、欲しいなあああああ。どっかに落ちてないかなあああああ。



この方、さすが、生き生きとしております。





カヌー乗りは、喋るよりも一緒に漕ぐことで分かり合っていく生き物です。

コミュニケーションツールとしてもカヌーのチカラは凄まじいです。
だから僕は、大切な人とこそ、支笏でカヌーを漕いでもらいたいと強く思います。

陸地では、街中では、なかなか深められない“何か”、ヒトとヒトとが確かにつながるために、とっても大切なものが、水上にはあるように感じるのです。
不安定だからこそ、安定した足場では必要のない“何か”が求められます。
それは今の時代、社会では評価されないことかもしれません。でも、そこをおろそかにしたから、今のワケの分からない世の中があるのではないだろうか。「世の中」さんもワケの分からない僕には言われたくないか。

不安定な水上でつながることができたなら、安定した陸地でそれが揺らぐことはないと僕は思っています。

水は、分断するのでなく、つないでいるのです。
この国は、地続きならぬ水続きで、地球上、どこにでもつながっています。
(極東の島国が、一生物ヒトとして良きものを発信できれば浸透率は凄まじいと思うのです。)


僕自身が、一般的に言うなら「不安定な生き方」をしているのも、同じことが言えるかもしれません。
半年で切り変わる生活。関わる人、景色、拠点、季節、僕、すべてが変わる。
人一倍さよならが嫌いなのに、人より多くのさよならを繰り返し、心の声に耳をすませてほっつき歩いているのは、それでも壊れない確かな“何か”をつくりたい、つくってみせたいからなのかもしれません。

アカデミー賞とか直木賞とかオリンピックで金メダルとかそういう分かりやすいものと違って、その“何か”は存在自体も曖昧で説明することも難しくて、でも、だからこそ、今、必要なのだと思います。
“それ”をそのままの形に残すことなんてできるはずがない。分かっている。けれど、ほんの少しでも“それ”を掴むことができるかもしれない道具として、僕は「言葉」という目の粗すぎる網を毎日投げるわけです。
“それ”の正体を確かめたい、見たいと思っている人は、少なくないです。僕のまわりだけかもしれませんが。
顔の見える誰でもない誰かのためになるかもしれないことは全部、いくらでもやっていたい。


大げさにいうと、僕は“それ”を形にしようとすること自体に生きる意味やら存在意義というやつを見出しているのでしょうね。
ま、「人は意味をつけたがる生き物」(ガガガSP「日暮らし」)で、僕も例外なく人ですからね。


多分、誰が評価しなくても構わなくて、理解されないことの方がいつでも普通で、分かられたところであーだこーだと文句を言うだろうし‥
自分の目ばかりを気にしているのです。ゆるーい顔して意外とストイックなのだろうか。
「自分を嫌いになりたくない」心が強すぎるのかもしれません。
自分を嫌いになったら生きてはいけない気がするから、‥まだまだ、もっともっと生かされていたいから、必死にこだわる、しがみつくわけですね。なるほど。独り言垂れ流しの術です。はい。



また妙なことばかり書いてしまったけれど、勿体ないから楽しんでくださいね。



表現って、臭くない排泄物のことですよね。う○こを出すのを恥ずかしがらずに、文章や思いや唄を恥ずかしがる必要なんてないわけで。
う○こが誰かを笑わせられるかもしれない。う○こが誰かの明日につながるかもしれない。ならば、出さない手はない。‥お食事中の方、すいません。


★ちなみに僕のドライパンツはやはりウェットパンツに変貌を遂げました。
二日連続で濡れたらもう、認めざるを得ないですな。水温も低いですし、足元が濡れるだけでも疲れます。ああ眠い眠い。



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