2015年12月16日水曜日

‘’シンプルを極めるとピュアになる‘’


カフェ営業三日目。既にずっと昔からやっていたような気になっているのは、昨日の初ひとりぼっち編で深めた自信だろうか。



日々、学ぶ。日々、気づかされる。表面上のこと。実戦的なところ。自分のこと。日々、ヒビケアのCMは毎年痛そうだが今年もだろうか。

シャッターをあけて、おはよー、今日も一日よろしくなと店とあいさつ。コロンビアのサンダルに履き替える。看板やら出すものを出し、暖房のスイッチを入れてお湯を沸かしたなら、
掃除より何より先に穏やかな心でもって豆を挽き、厨房に充満する世界一の香りに包まれながら、丁寧にゆっくりとコーヒーを淹れていく。誰もいない。ぼくだけ。いや、店とぼく、か。必要な音だけが、ただ、鳴る。この時間がたまらない。

誰かが何かしている、生活の音が好きだ。キッチンサウンドは特に良い。それが自分のためだと尚素晴らしい。

そこから掃除をして、タオルを洗い、音楽とテレビの電源をつけたなら、インディアンが狼煙をあげるかのごとく、ぼくは旗を2つ掲げた。

小さな、こまごまとしたさざ波のような朝の儀式。

10時、開店。今日も穏やかな湖。荒れてくれたならウズウズしないで済むのだが。

予約制のカヌーツアーと違い、来客のタイミングは風まかせ。
いつくるか分からぬ人の帰りを待つでもなく待つ家人はてーへんだ。
気を張るものだなあ。張るでもなく張るのがややこしい。
集中力の使い方は野球に似ている。抜きどころを掴めば楽になるのだろう。
野球もサッカーもバスケもやったが、野球はイマイチセンスがなかった。サッカーはご存知の通り、日本代表として脚光を浴び続けた。

ガイドでも氷濤マンでもない。冬に生まれた新人類、コーヒーマンは立ちっぱなしなだけだから、着圧タイツさえ履いていれば何てことはない。これを履くか履かないかで雲泥の差が出る。立ち仕事の方は是非お試しあれ。
ぼくはシースリーフィットもスキンズも長きにわたり愛用している。

分かりやすい肉体労働から少し距離ができたなら、頑丈でもないらしい身体からのクレームはピタリとやんだ。

気づけば外は暗くなり、包容力の塊のような方といつものように雑談しながら閉店作業。

帰り支度。軽くないスープマグをつかんだときに、一応今日は持ってきてみていた朝の残り味噌汁にすら手をつけていなかったことに気が付き、夕飯にしようと思ったことをすっかり忘れて、ラーメンを食べたことを今、また思い出したので、これからすすろうと思ふ。
ちなみに、味噌は去年なおさんに教わりつつつくった。手前味噌。

店にどっぷりいるようになってからぼくの食リズムは変わった。朝か夜、食べれるときに食べる。店では食べない。
コーヒーマンはカヌーマンより氷濤マンより燃費が上がるエコカーだった 。
夏に店をいちばん守ってくれたどるふぃんもエコカーだった。
そうか、気が休まらないと食べる気にならないのだ。

ふらりと立ち寄る側から、ふらりと立ち寄られるかも側へ。真逆方向へのシフト。すさまじい。
脱風、ようこそ大地。
風にしか分からない、風が大地に求めていることを体現できればいい。うるさいことはひとつもいわずに、ただ、いつも帰ってきたらいてほしい。あってほしい。旅の空の話を聞いてほしい。


ぼくの淹れたコーヒーを飲んだ千歳⭕報の新聞記者さんが、

‘シンプルを極めるとピュアになる’

との名言を思い出したという。
(映画『二郎は鮨の夢を見る』よりだとか)


ほめられるとぎこちなくなるのはなんだろう。
水の上ならそのへんは無敵だのに。

まあまあ、久しぶりに、ずきゅんわーどもーらい。

分かる人が分かってくれればいい。
何を言われ、思われようと、ぼくが好きなコーヒーはこれ。

ずっと、飽きることなく飲み続けてきた。

ずっと、大切な人にだけ淹れていたコーヒーを、ぼくはお金にし始めた。

君のためのコーヒー。
とっておきだからとっておこうとも思ったのだが、そこで守りに入ったら、お店は面白くならないし、嘘ついて他のコーヒー出しても気分が悪いし、できないし、したくないし、そんなことならコーヒーを淹れる意味がないよね。好きでもない人とセックスしても虚しいよね。

伝えたいものがあるなら、出し惜しみしたらいけない。

コーヒーには、ぼくのエゴをたっぷり詰められた。
どうしたって譲れないものが何なのか、どこにどんな風に自分の中に備わっているのかが、非常にクリアになってきた。

伝えたいものや心のないツアーはナンセンス。

ぼくの気持ちはぼくだけのものだから許してもらおう。

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