2012年9月27日木曜日

紅葉のお土産と、浅いガイド論

午前、止まない雨中ツアー。


「しょっぱくない、快適!」


ここは、淡水の湖。

常夏から、ようこそ、四季彩の国へ。

ハーリーやサバニ、オトーリ、南方系文化の精神性、東京や北海道、故郷と拠点についてなどなど、タープの下で話しこみました。


午後は、たまにパラつく程度で、雨が上がりました。


もう少ししたら、深いところへ移動していく小さな命たちを観察。


雨に当たると冷える。もう九月も末。湖畔にも秋が落ちています。




仙台の友人に似ているなあと、勝手に親近感の同世代s。
ツアー中、何回「青い!」と驚き、叫んでいただろうか。


東京者の僕は寒がりな気がするので、ドライ(濡れない)パンツを履いた。お客様より先にへばるワケにはいかないので。


今年になってからよく耳にするようになった美瑛の「青い池」より、支笏は青いそうです。
今日は特に青かった。




★ガ イ ド とは‥★

三シーズン、現場で学び得た、僕の思う「ガイド」という仕事について、あれこれ、今日は触れてみたい。
ガイドの数だけガイド論があるはずだから、これはほんの一部ということで。


カヌーツアーは、何事もなく終わるのが、「当たり前」。何かあったら、大変だ。
誰も、世間も、お客様も、僕も、わざわざ「当たり前」を称え合うなんてことはしないけれど、準備から終了までには、無数のリスクが存在している。

それらのリスクからお客様を守り、危険の芽を摘み取り続けるのが、ガイドという仕事。

単に漕ぐ技術が高ければ「良いガイド」という単純なものではない。勿論漕げるに越したことはないが、総合的な人間力が試される気がする。


一見華やかかもしれないけれど、派手な仕事ではない。ガイドはツアーの主役‥ではない。
フィールドやカヌーの魅力をあらゆる角度から、効果的により良く見せるつなぎ的存在。
フィールドとカヌーと人をつなげる水先案内人。


「安全なツアー」へ向かう道には、石ころや倒木など、あらゆる障害物が点在している。
天気、風や波、自身のモチベーションや体調、状況などによって、障害物は姿や形、場所等を刻一刻と変えていく。
一瞬の判断ミスが、取り返しのつかない事態を招くかもしれない。
「恐い」という感覚は、カッコ悪いものではない。生きるための、防衛本能だ。


いつもと違う匂いを嗅ぎとる、変化を察知するチカラと、
実際に足を動かして回避するチカラ。
どちらかだけではいけない。

使うのは身体だけではない。大事なのは健康体だけではない。肝は、意識・無意識問わずの「思考」だ。

“気”を使いすぎて余ることはない。集中しすぎて勿体ないということもない。
「こうなったらどうする?ああなったら‥?」あれこれ想像力を働かせすぎて、まずいこともない。
消耗しすぎて損することは、少ない。


やりすぎなくらい準備を整える、準備段階で発生した「ゆとり」(ex.時間的余裕→精神的余裕)は、目の前のお客様に還元できる。満足気なお客様の笑顔が、明日のモチベーションにつながる。

僕は、ゆとりを作ることを怠っていた。

人はすぐ楽な方楽な方へと流れたがる。何事にも慣れたがる。そうして、僕も人だ。
惰性で回すべきではないことがある。

僕は、少し慣れてきていた。
不器用なくせして、いっちょ前に。



充実感、自己嫌悪、出会い、好奇心、逞しさ、尊敬、許容、肯定感、居心地、不安定、笑顔と涙と悔しさと憤りと愛しさと切なさと心強さと‥
心をこれだけ目一杯振るわせる仕事は、世の中にそう多くない。かもしれない事実。


ガイドという仕事は、やりがいだらけの、割には合わない仕事だ。‥ん?どこかで聞いたセリフだ‥

あ、新谷さんだ。


★新谷暁生的ガイド論★

「バトル・オブ・アリューシャン」より。

・ガイドはやるに値する仕事だ。しかし割りの良い仕事ではない。

「73回目の知床」より。

経験を積むと過信しなくなる。つまり用心深くなる。ガイドの資質として用心深いことは重要なことだ。
過信するガイドは自信に満ち溢れていてガイドらしい。しかしそういうガイドは時に客を忘れる。ガイドは過信してはならない。
ガイドは経験を積む努力を忘れてはならない。そして経験だけは誰も教えてはくれないのだ。

僕は冒険家ではなくガイドだ。僕はいつも良いガイドであろうとしてきた。ガイドの資質として求められるものは安全への嗅覚だ。
避けなければならないのは過信だ。僕はそれを自分の信条としてきた。しかし未だにそれを果たせないでいる。
僕にとってはそれを目指すことが、つまりは生きることだ。終わりは向こうから来る。それまで僕は諦めない。




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