2017年12月23日土曜日

『「思い出」のレシピ』大滝末馬

『「思い出」のレシピ 料理長漂流記』
大滝末馬(おおたきすえま)/読売新聞社/1997年10月13日


大滝裕子さんの個性的文体とは打って変わって、癖のない、入りやすい文章。
本人の目線、寄り添う夫/妻の目線。見方が変わると、人が変わって見えるからオモシロイ。

主観と客観はイコールではありえない。誰にどう見られているか、誰をどう見ているか。どちらが真実かは分からない。自分の感覚によって人を見るしか人間にはできない。
春凪のようになるだけ水平に見つめるよう努めはするけれど、最低限のモラルが守られない場合、季節の変わり目には風が走る。うさぎが跳ねる。
一方通行では成立しないのが「間柄」。寄り添いたい人がいるか、寄り添いたい人が寄り添いたいと同じように思っているか。素直に表現し合えているか。
いつしかそれは「惰性」、「馴れ合い」に成り下がってはいないか。「愛」という美しい言葉を言い訳にしてはいないだろうか。それは本当に「愛」か?「あなたのため」は「自分のため」にすり替わってはいないか?
良い意味での緊張感を常に互いに持ち続けることを忘れずにいきたい。
どれもその人。人によって人は変わる。人間の多面性というのは複雑怪奇だ。

どうでもいい人にどう思われてもそんなことはどうでも良いけれど、どうでもよくない人にどう思われているかは大問題。自分が今の自分を好きといえるかどうかも同じように大切にしてきた、していく。

人に期待せずに人と関わることは、ぼくには酷く難しい。好きかどうでもいいかの二択。間はない。ほどほどの距離感という分かりにくいのを保つことが困難だし、上っ面の関係性の維持の仕方なんてそもそも学ぶ気もない。時間は有限だし、愛想笑いに使うのは控えたい。不器用なだけだが。
浅いのが好きなら最大深度363mにたどり着くこともなかった。無益なことは習得せずにやってきた。
先に好きになってしまうことが(無意識であったにせよ)今までやってきた人間関係の構築方法で、
ーだからぼくの世界にはこれまで「好きな人」しか存在してこなかったー
それが通用しない時はさて、どうしたらよいのだろうか。
武器はそれだけだ。「好き」というエネルギー、好奇心だけ。
惚れさせてもらえない、惚れる要素がないとなると、一歩二歩退く、諦める、しかない。諦める、それは何か良いものを生み出せたか?
「悲しい」-「センチメンタル」=「虚しい」。
虚しいってのには、解決の策があるものだろうか。いやはや、虚しいってのはただただ虚しい。こんな思いを何故せねばならんのか。
何でもない風で、酷く引っ張られてしまうのだ。地球は丸い。良い空気は循環するし、悪い空気も循環する。

大滝末馬(この本を手にしてようやく「すえま」と読むことが判明。かずま?みま?気になって仕方がなかったのでスッキリ!)氏、19歳で日本を飛び出しカナダへ。そこからの18年間の海外での料理人生活の記録。

以下、ちょいと引用。

・不思議なもので、生活は言葉はできなくても思いやりを持った人たちに囲まれると、自然に始まるものだった。
・極端に言えば、料理以外のことを考えるのは時間がもったいないのです。
・モントリオールで妻と出会い結婚したことは、それまであまり味のしなかった一人暮らしの日常に妻という新しい味付けが加わったことになり、人生がいろんな味に変化して、疲れることもあるけれど、がぜん面白くなったのは事実です。

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