2016年10月9日日曜日

支笏湖紅葉まつり2016


快晴、たまに雨。店内の気温計は、13℃。
強風のため午後ツアーは一切の迷いなく中止の判断を下した。
いつだって中止の決断をするときは悩みに悩んだ末に決めているが、今日のようにこれだけ風が吹けば諦めもつくというものだ。
ぼくら人間の能力なんて、自然の中では何てことない。
外に出ることで、畏れが生まれる。風も水も流れも、森も、すべてはおっかないほどに美しい。おっかなければおっかないほど美しい。美しさはおっかなさ、だ。
陸地ではすぐに枯渇する謙虚さを胸に刻み続けるために、自分たちの微小さを知るために、ぼくらは外に出るのかもしれない。
「足らない」事実をあるがままに受け入れることで、「足るを知」っていく。


写真は礼文の漁港から望んだ利尻富士。
海と空の青がこの島ではひとつ。水と山。青と緑。花と海。利尻と礼文。バランス。相性の良さでこの二島に敵う場所は他にないのではないか。それぞれに趣の異なる魅力的な島は単体で在っても成立するけれど、すぐそばに二つの島があることで、より引き立て合う、馴れ合わずに足を引っ張り合うことも一切なく「寄り添い、高め合う」最高級の信頼で結ばれた理想形がこの二島にいるとひしひしと感じられ、それが夢の世界の間柄ではなく、実在する独立した関係性であることがぼくに希望を与えた。
理想論では終わらずに、奇跡のような現実が起こり得るかもしれない。

利尻にとっての礼文。
ぼくは利尻に憧れて利尻に近づいてみた。そばにいったらさらに利尻に憧れた。
利尻にとっての礼文の存在の意味も近づいて初めて分かった。
二つは、二人は、完璧だった。こんな二人をぼくは今までに見たことがない。アダムとイブとかジョンとヨーコとか、それくらいかもしれない。

ぼくは利尻になりたい。
ぼくにとっての礼文はどこにあるのか。いや、ないのかもしれない。もし、あるのならばそれは、何なのか、どこであり、誰なのだろう。

遠くに出かけなくても分かることはいくらでもある。移動距離はステータスなんかじゃない。何か国いったって人は愚かなままだ。すごくない。
生まれ育った場所で死ぬ人の方が世界中を旅した人より真理を掴んでいたり魅力的であるケースはいくらでもある。暮らしを超える旅なんてありえない。「旅人」なんてかっこよさそうな言葉より「通行人」の方が的確だとぼくは思っている。
でもやっぱり、ここではないどこかに行くことでぼくの思考はグッとシンプルになるのも確か。
守りたいことは何か、会いたいのは誰か。

眼下に拡がるこの世のモノとは思えぬ素晴らしき夢見心地の大展望。この景色を見せたい人がいる。


脱線しました。
テイクアウトモードがシステマチックに、円滑に動かせていることを改めて確認。
コーヒーの味さえ決まっていれば、誰でもが店員となれる。

「ピンチになったらきっと助けに来るよ~♪」by とんねるず 「がじゃいも」より。
‥ではないけれど、みんなで共働する、できるというのは、面白い、楽しい。

飲食は「力」ではない。
カヌーも「美しさ」だったり「滑らかさ」だったりであり決して「力」一辺倒ではないところが良い。
ぼくはそういった、凪の湖面のような「水平性」フェチなのだろう。
誰も偉くない。誰もすごくない。ぼくらは皆素晴らしい。ぼくも、あなたも素晴らしい。
それだけでいいはずだとぼくは信じてやっていく。

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