2014年12月5日金曜日

鬼門の番線しばり

復帰1.5日。
ブルータワー(12mほど)&レッドタワー(9mほど)骨組み制作。


高い系は単管(鉄のパイプ)ではなく、丸太を番線(強い針金みたいな)で縛るという単純明快な方法で行う。
単管は折れないけれど木は折れる。木は揺れる。

左手が不安なので、なるだけ負荷をかけたくないということがあり、いつもならさっと動けるときに、ビクっと一瞬ひるんでしまう。
本当はもっとできるのにできないもどかしさ。
ぼくにとって仕事はお金のためも勿論、楽しいもの、楽しむもの。
だのに、思いっきり、いつものように笑えない。


それでも、目の前に縛るべき個所があったなら、周りにやってくれそうな人が見当たらないようであれば、えいやと右手にラチェットを握る。

「今年の番線はやわくてかなわん」

そんな話も出ているが、手負いの左手でテンションをかけながら「やわい」はずの番線を抑えるのも難しく、
手袋を脱いだ手には嫌な痺れが残っていて、家に帰ると中指の可動域がまた狭まっていた。

指が伸ばせない。伸ばしたくない状態に逆戻り。腫れもひかない。炎症は継続中。
使っているのだから当たり前か。
湿布を貼って目覚めても状況は変わらず、これでは猫の手以下の仕事しかできないので今日も休み。



心配させたくてこういう文章を書くわけではなく、何というか、こういう、ツラいときほど、知られたくないことほど晒しておかねばとぼくなんか思うわけです。
なんというかその、Mっ気気質とでもいうのでしょうか、何でもネタにしてまえ芸人気質が疼くのです。
いつでももう一人の自分が、何か起きる度にガッツポーズをしているのです。そいつの存在がぼくには憎たらしくも頼もしかったりと、なんとも複雑な気分になるのです。

中学生のとき惚れ込んでいたキャメロン・ディアスが雑誌インタビューで言っていました。
ニュアンス覚えで恐縮ですが、「自分を笑えなきゃ、人生面白くないわよ。ユーモアの原点はそこでしょ」



文章の書き方には、その人の生き方が出るとぼくは思っている。
ネタにするのもどうなのかというモラルを疑われそうな気もしますが、
きれいな上っ面だけのきれいごとや自慢話なんて読んでも面白くないし響かない。
汚くて情けなくて弱っちい、矛盾を孕んだ人間臭さにぼくは感動する。

さて、今日も千歳はいい天気です。




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