季節の移ろいに合わせてぼくらの働き方も変わる。
ぼくはカヌーガイドからカフェ隊長に転じる。
半年のブランク。
接客の仕方が変わる。稼ぐ場所も武器も持ち替える。頭も切り替える。人が減る。
ケーキつくるのかあ。つくれるのかなあ。ダンドリどうしていたっけ。
とりあえず、やっていくうちに、どんどん思い出して勘を取り戻してきたこの二週間。
店での在り方がどうもぎこちないのは相変わらずだが、それがまた味だろうと信じる。
何もない所から生み出す苦しみに比べたら、前例をなぞること等容易いことだった。
去年の今頃は、本当に必死だった。苦しかった。心細かった。
そりゃそうだ。やったことのないことで冬を越えてやろうとしていたのだから。
そのおかげで、今のぼくがいる。
去年のぼくにありがとうと伝えたい。
2016年4月2日 尻別川。この頃は緊張感もあり、目の前で起こる出来事すべてに一生懸命なかわいい新人君なのであった。
2016年11月30日水曜日
2016年11月29日火曜日
なんてコーヒー
「葉が落ちてから雪が降るまで」の間はどうしてこう長いのだろう。
(東山からは溶岩ドームがカッコ良いが、西山からも好き。photo by chika.O)
熱ければいいだけのコーヒーなんて。
薄ければいいだけのコーヒーなんて。
苦ければいいだけのコーヒーなんて。
2016年11月27日日曜日
素晴らしい世界を見たい
成長痛。
ついつい、ないものや、手離したものに心が向きかける。
前を向けばいいのだ。分かっている。新しい乗り物はまずは乗りこなせるまでが一勝負。しかし、さらなる勝負はその次。
乗りこなせるようになったらその先が見えてくるはずで。見えないことはできない。イメージのない人間の軌跡は華麗ではない。
photo by YOSHIHIRO.H
10月の紋別岳にて。
精神的な余裕が生まれたとき、さらなる高みへの足掻きが始まる。
二冬目の店。
例えば、恋人ができると、この人と一生…と思う。思うのに、何度か別れは唐突だったり、自然と訪れる。回復には付き合った年月がかかる。
年を重ねる度、恋をすればするほど、自分の気持ちが信用し難いものになっていく気がする。
「大人の方が 恋はせつない」
ドリカム『もしも雪なら』より。
新しい恋に落ちたとき、それまでに恋した人たちから「嘘つき」「あんなに好きだと言ってたじゃない」と責められているような気がしてしまい、「ま、まだ、恋に落ちてはいないかも…しれな、い…」と本当は既に恋をしているのに、事実を湾曲させて言い訳がましくなったりする。裏切ったわけではないはずだのに、なんでか要らない後ろめたさが発生することがある。
そのときは本当の気持ちで向きあったのは間違いない。しかし、それはそれ、今は今なのだ。そう、潔くいきたいのは理想。
実際には難しく、どこかに罪悪感や申し訳ない気持ちがなくなることはなく、羽ばたきたがるぼくの足首は常に過去に掴まれているような感覚に陥りがちだ。
等身大の自分はなんて情けなく、未熟だろうか。ため息が出る。
鼓舞するためにこうして書くしか処方箋はなし。
誰の跡も追わずに生きてきたぼくの場所にはぼくしかいない。
分かってやれるのは、目撃者はぼくだけだ。
ぼくはぼくに倣う。
毎日ヒリヒリしながら、たまに冷や汗をかきつつ、好きなことで稼ぐ。淡々と。何でもないように。暑苦しさは必要なときだけ提供する。
人が押し寄せたとき、頼るのは自分。
思い煩っても無益な過去にはおさらばして、さらにその先へ。
脱ないものねだり、脱ひきずり太郎。
毎日は静かながら申し分なくスリリングで、それをぼくはいたく気に入っているのだから。もうここからは解放へ向かうのだ。
最後は瀬戸内寂聴さんの言葉で締めます。
ついつい、ないものや、手離したものに心が向きかける。
前を向けばいいのだ。分かっている。新しい乗り物はまずは乗りこなせるまでが一勝負。しかし、さらなる勝負はその次。
乗りこなせるようになったらその先が見えてくるはずで。見えないことはできない。イメージのない人間の軌跡は華麗ではない。
photo by YOSHIHIRO.H
10月の紋別岳にて。
精神的な余裕が生まれたとき、さらなる高みへの足掻きが始まる。
二冬目の店。
例えば、恋人ができると、この人と一生…と思う。思うのに、何度か別れは唐突だったり、自然と訪れる。回復には付き合った年月がかかる。
年を重ねる度、恋をすればするほど、自分の気持ちが信用し難いものになっていく気がする。
「大人の方が 恋はせつない」
ドリカム『もしも雪なら』より。
新しい恋に落ちたとき、それまでに恋した人たちから「嘘つき」「あんなに好きだと言ってたじゃない」と責められているような気がしてしまい、「ま、まだ、恋に落ちてはいないかも…しれな、い…」と本当は既に恋をしているのに、事実を湾曲させて言い訳がましくなったりする。裏切ったわけではないはずだのに、なんでか要らない後ろめたさが発生することがある。
そのときは本当の気持ちで向きあったのは間違いない。しかし、それはそれ、今は今なのだ。そう、潔くいきたいのは理想。
実際には難しく、どこかに罪悪感や申し訳ない気持ちがなくなることはなく、羽ばたきたがるぼくの足首は常に過去に掴まれているような感覚に陥りがちだ。
等身大の自分はなんて情けなく、未熟だろうか。ため息が出る。
鼓舞するためにこうして書くしか処方箋はなし。
誰の跡も追わずに生きてきたぼくの場所にはぼくしかいない。
分かってやれるのは、目撃者はぼくだけだ。
ぼくはぼくに倣う。
毎日ヒリヒリしながら、たまに冷や汗をかきつつ、好きなことで稼ぐ。淡々と。何でもないように。暑苦しさは必要なときだけ提供する。
人が押し寄せたとき、頼るのは自分。
思い煩っても無益な過去にはおさらばして、さらにその先へ。
脱ないものねだり、脱ひきずり太郎。
毎日は静かながら申し分なくスリリングで、それをぼくはいたく気に入っているのだから。もうここからは解放へ向かうのだ。
最後は瀬戸内寂聴さんの言葉で締めます。
もし、人より素晴らしい世界を見よう、
そこにある宝にめぐり逢おうとするなら、
どうしたって危険な道、
恐い道を歩かねばなりません。
そういう道を求めて歩くのが、
才能に賭ける人の心構えなのです。
2016年11月25日金曜日
ラフでない言葉遣い
夏も冬も言葉遣いについてよく考える。
自分の口癖や人の口癖については毎年なおきさんとの会話の話題となる。
意識してはいてもついつい使いすぎてしまう言葉というのが人それぞれにどうしてもある。
小さなストレスが積み重なることで、お客さんのecstasyが遠のいていく。ぼくらは、いや、少なくともぼくは気持ちよさそうな人の顔を見るのが好きだ。まずは意識するところから始まる。
きれいな言葉を使う人が男女問わず好きだ。言葉を適当に扱う人は、なんだか信用ならない。汚い言葉はその人を汚く見せてしまう気がする。言葉は人の影みたいなものだ。
「かしこまりました」は去年、陸の接客先輩であるふっくんに学んだ。
丁寧だけれど上品すぎず、誠実だけれどフランク。そんな絶妙な曖昧ラインを手探りしている今日この頃。
チャンスがあれば、求められれば、やはり、ついつい喋りすぎる。お喋り野郎共のことを言えない。
内容は専ら、支笏湖の美しさ、カヌーの面白さ、氷濤まつり制作側の思い、の三つに尽きる。
伝えたいものがぼくには確かにある。
カフェはカヌーツアーよりずっとずっと敷居が低い。カヌーも支笏湖のこともよく知らない人が間違ってぼくらのお店に入ってくる。しめたものだ。
ツアーに間違って参加する人はいない。稀にいるが。
間口は広いに越したことがない。
ぼくらの世界は素晴らしい。
photo by NAOKI.M
二年前の11月は沙流川にいて、氷濤制作二冬目を待ち構えていた。
自分の口癖や人の口癖については毎年なおきさんとの会話の話題となる。
意識してはいてもついつい使いすぎてしまう言葉というのが人それぞれにどうしてもある。
小さなストレスが積み重なることで、お客さんのecstasyが遠のいていく。ぼくらは、いや、少なくともぼくは気持ちよさそうな人の顔を見るのが好きだ。まずは意識するところから始まる。
きれいな言葉を使う人が男女問わず好きだ。言葉を適当に扱う人は、なんだか信用ならない。汚い言葉はその人を汚く見せてしまう気がする。言葉は人の影みたいなものだ。
「かしこまりました」は去年、陸の接客先輩であるふっくんに学んだ。
丁寧だけれど上品すぎず、誠実だけれどフランク。そんな絶妙な曖昧ラインを手探りしている今日この頃。
チャンスがあれば、求められれば、やはり、ついつい喋りすぎる。お喋り野郎共のことを言えない。
内容は専ら、支笏湖の美しさ、カヌーの面白さ、氷濤まつり制作側の思い、の三つに尽きる。
伝えたいものがぼくには確かにある。
カフェはカヌーツアーよりずっとずっと敷居が低い。カヌーも支笏湖のこともよく知らない人が間違ってぼくらのお店に入ってくる。しめたものだ。
ツアーに間違って参加する人はいない。稀にいるが。
間口は広いに越したことがない。
ぼくらの世界は素晴らしい。
photo by NAOKI.M
二年前の11月は沙流川にいて、氷濤制作二冬目を待ち構えていた。
2016年11月24日木曜日
「また食べたい」と言われる意味は「また食べたい」と思わされる度に増していく
今日も好天。寒い。
去年の今頃は、カフェ準備の真っ最中であった。たった去年。
周囲には「大丈夫なのか?」と言われまくっていた。新しいことを始めようとすると周囲はいつも無責任に不安を煽る。
どこか外に修行にでも出た方がいいような気持ちにもなり、お気に入りの店の求人情報を漁ったりもした。
しかし、不安と同居するようにして、もうひとつ、どこから湧いてくるのか分からない根拠のない自信もあった。今の自分にならできる気がしていた。できないことは何もないと、ようやっと荷物を背負ってみたくもあったぼくの気概は柄にもなく満ち満ちていた。タイミングというのは妙なモノで、それが一昨年でも、今年でも噛み合うことはなかっただろう。
背負えるようになるには、まず委ねてもらわないことには始まりもしない、という事実も数年前に学んでいたのでその意味も重々分かっていた。人はどうでも仕事は裏切らない。
根拠のない自信を深めてくれたのはにんじんケーキ考案者のなお大先生であった。
(新宿三丁目の博多天神。酔っ払いの帰り道はここ。替え玉一杯無料で500円。)
五年、毎日ツアーでやってきたことを、湖畔でのカフェを陸に持っていくだけ。
誰の真似もする必要はないこと。ぼくらにはぼくらのスタイルが既に確立されているのだから、と。
去年があるかないかでこうも違うものか。そんなことを思い知らされながら淡々と、コツコツとやるべきことから手をつけては明日につなげていく日々。遠くには単管の音が響いた。
2016年11月23日水曜日
カヌーからのコーヒー
氷濤制作陣、お休み。
午前。久々ツアーへ出動すべく、着ぶくれ化。
今日は寒いぞ。【モンベル】のウールアンダー(厚手)に早くも手を出す。
こんなことでは真冬はどうしたらいいのだろう。いやはや、今年の11月は寒いどー。
忘れ物かな、落し物かな。カヌーガイド兼氷濤制作陣・なおき隊長に休みはなし。
赤いお宝を探しながら。
寒いは寒いで、また新たな美しさのドアが開いた。
午後からはしれーっとカフェモード。
誰も気付かないであろうけれど、自分にとっては目から鱗の新発見を今日もひとつ。
地味にふっくんを召喚したくなる、そういえばの祝日・黄昏時なのであった。
2016年11月22日火曜日
小上がり、なくなりました
本日もほぼ凪のナイスコンディションの中、久々ほーりーによるインターナショナルツアー。
風がないとあたたかい。
雪が降るかどうかの微妙な時期、日本人はひっそりお家に潜んでいるのだろうか。静寂の支笏湖温泉街。秋に豊作の宴をさせてくれた目の前の栗の木の葉はしぶとくまだ落ち切らない。「冬やで!」と毎朝声掛けをしているのだがなあ。
気に入った店に通う側から待つ身になって初めて、その気持ちがわかるような。
いつもそこに行けば会える。
いつ来てもいいように場所を守ること。何でもないようで、何でもなくないんだよなあ、これが。
待っていないようで待ってくれていたんだろうなあ、これが。駆け引きだよなあ。疑似恋愛だよなあ。気持ちは大事だけれど、あまり重たすぎるとお互いのためにはならないこともある。
季節に応じて店の使い方がガラリと変わる【かのあ】店内。これほど変化の大きい店もそうない気がする。生き物みたい。
制作者の手により、今年は小上がりを解体することとなった。
ひぃ
ふぅ
みぃ
‥やあ!!
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