2016年12月8日木曜日

「明るい未来」

冬の早朝はどうしてこう美しいのだろう。


元サヤ、支笏湖神社にご挨拶。

氷濤祭りの骨組み制作はすこぶる順調らしい。
制作内部の状況が今よりもっと広い所で公開・共有されるべきだろう?と去年までは強く思っていた。(されたらされたで困ることも多い)
個人的にはまつり自体より人間模様にこそ、このまつりの魅力が詰まっているからそこを知ってほしくて、自称・氷濤アンテナショップという裏の顔を持ちながら【カフェCANOA】で過ごした初めての冬。

氷濤まつりについて、「12人でつくっている」という事実に驚かない人はいなかった。
「そうみたいですね。」は一度も聞かなかった。
制作側とお客さんとの間の温度差をコーヒーはさらりとつなげてくれた。この間口の広さはカヌーと相反する。
温泉街から眺めた「氷濤祭り」と、たった二冬しか知らない「氷濤祭り」の展望は確かに明らかに別物であった。
支笏湖温泉街とまつり会場は、目と鼻の位置にあるはずなのだが、近いようで同じ場所にはなく、同じ方向を向いているわけでもないような気がする。

ただ「そうみたいですね。」というリアクションがひとつでいいから欲しかった。
「誰も知らない」という事実が、周りの評価をさして必要とも重要とも思っていないぼくであるはずなのに、何でか結構ショッキングであった。
あれ?そ、そんなはずは‥(???)。二冬を捧げた氷濤は一体なんだったのか?!!幻か?夢か?柳楽優弥か、と。
制作陣営に入るまで、ぼくも何にも知らなかった事実はここでは棚に上げています。

主観だけでも、客観だけでもない場所からしか、平衡はとれない。どちらかだけでなく、どちらも。水も店も街も湖だって、夏も冬も東京も北海道も。相反する様々を体内に併せ持ち、ここしか歩けない絶妙なラインを歩き通したい。

しかし、まあ、まつりで重要尚且つ注目視されるのは過程ではなく、制作者でもなく、ただただ「まつり」本番の三週間であり、お客さんにとっては当日が楽しめたかどうかがすべてであるわけであり、それが正しきまつりの姿なのかもしれないと、温泉街二冬目の新たな思考。
ぼくは日の目を浴びたくてしかたがなかったような気がするようなしないような。あまり覚えていない。書く余力は少なくともなかった。

チーズケーキの焼き上がりに静かに頷きながら、難解な英文に溜息をつきながら、コーヒー美味しいねって言われたら照れくさくて仕方がないし、
店に来る人が今のぼくの味方であり、そこは非常に単純明快であり、それ以外のことはもうどこか遠い異国のお話。

ずっと、常に考えているのは、考えていられているのは、「明るい未来」、そう、これから。
頼りにしたいのも、頼りにしていくのも‥自分。

誰かがどうでも、ぼくは何をするか。
誰かがいようといなかろうと、ぼくが手放したくないものは何か。

軸が不確かな人ではなく、しかと「自分」にある人にぼくは憧れる。
見習いたい人がすぐそばにいるのは幸運だ。

先日教わった唄。

明るい未来の話し 
寒い夜でも君と二人で
ふざけたダンスを踊ろう
いつまでも側にいてくれよ
【never young beach「明るい未来」】

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