2012年12月3日月曜日

東京で躍る仲間たち





ひっそりと東京に着いたのは、誰のためでもなく情けないことに自分のためだったのだろう。

僕はこわかった。

去年と変わらず、社会活動にのめり込んでいる仲間たちに再会したら、今冬の課題である農業に関わることができなくなるのではないか、と。

まぁ、そうなったらそれはそれで、その程度の興味関心だったということなのだが。

12/3現在の僕は、北海道に軸である左足を置いている感覚がある。
僕のベースには北海道、そんな気でいる。


今年の春、東京から北海道に向かうCUB主は、泣いていた。
大洗に向かいながら、涙で前が見えなくなっていた。

大好きで大切な仲間たちのそばで、同じものを目指すことができなくなることは、大泣きするに値する大事件だった。

大好きなのに、足を動かし自ら離れる。身体と心は完全にちぐはぐだった。

北海道に着いてからも、僕の心は東京にあった。6月くらいまで本当に寂しかった。つらかった。しんどかった。

その複雑な感情は、naokiさんたちに打ち明けるのは絶対違うし、東京の仲間たちに頼るのも違った。

どうしようもない僕は、まっさらな目で何でもない"僕"を見てくれる人に、ひたすら寄りかかった。
その人がいなかったら僕は、間違いなくパンクしていた。
君がいたから、今、笑っている僕がいる。

捉え方次第でしかないが、僕は一人では生きていけない。
生きる必要もないと思っている。
自分だけのために生きる意味を僕は見出さない。


僕はカヌーガイドというやりがいだらけの仕事に苦しみ悶えながらも極上の生きがいを感じている。
大好きなカヌーを大好きな場所で漕いで、大好きな人とつながる。
毎日、毎日、書きたいものがなくなることはなかった。今年は去年以上に、とにかく書くことが最強の喜びだった。
この仕事には僕の大好きが詰まっている。

好きなことをやっている自分が僕は好きで、
【かのあ】がたまらなく好きで、
そういった自分の単純すぎる心変わりはとめることもできず、どちらにたいしても申し訳なかった。

住めば都。
僕はどこに住んでも、何をしても、そこを好きになる。

都合の良い僕を、どちらのコミュニティーも、変わらず優しく見守ってくれた。

どこにたいしても、誰にたいしても、適わないなあと、僕はニタニタするより他にない。

息苦しく、無駄に人の多い、煌びやかなだけでスカスカの東京にも、
一緒に心躍らす仲間がいる。

僕は街を徘徊する自分より、美しい川や湖に浮かぶ自分が好きだけれど、
東京には、きらきらと輝く自由すぎる逸材が沢山いて、彼らは僕にはやっぱり、とっても魅力的に映るのだ。

ワケの分からない混乱の極みにある世の中だけれど、
それでも、生きることは、人は、皆それぞれに、美しい。

2 件のコメント:

  1. 仲間がいるっていいね。近くでも離れていても、心の中に仲間がいれば生きていけると思ってます。

    都会には都会の魅力があるし、田舎には田舎の魅力がある。支笏湖が田舎だとはあんまり思わないけど(笑)

    どこでも、人間が生きる基本は、きちんと働いて自分の生きるためのお金を稼ぎ、しっかり納税し、その上で世の中の不都合を変えるべく自分の主張を実現できる事を考えることじゃないかと思ってます。

    生きていくって、簡単なようで案外大変なんだと思います。

    と、今まで生きてきた年月よりの何分の一かしか生きていけない年月しか残っていなくなって思うことです。

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  2. 〉kenjiの姫さん
    お疲れ様です。コメントありがとうございます!

    共有した時間が濃密であれば、なくなるものは何もありませんね。
    お店には迷惑極まりない客でしたが。どうしようもない大人って、いいもんですね。

    支笏は田舎というより、僕には「外国」という感じですね。

    僕の場合は、最低限自分なりのルールを守ってはおりますが、足元が不安定なのにアピールばかりいっちょまえで。説得力もなんもあったもんじゃないですね。
    もう少し器用になるべきなのでしょうが…。

    いつ果てるか分からぬ命。
    思いっきり、漕ぎましょう。走りましょう。思いっきり、愛する人と笑い会いましょう。

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