2011年3月11日、彼は生まれ育った仙台‥ではなく、伊豆大島にいた。
「地震発生から仙台に帰るまでは
映画みたいな映像と展開で
正直現実感がなかったです。」
(【あにまる★ぱーく~地震から9日目】より。
(2011年4月、荒浜を行くきんちゃんphoto by ぱくちゃん)
彼が東京から仙台に帰るまでの数日を、僕は中野で共に過ごした。
ようやく確保できた池袋発の夜行バスで、仙台へ向かう彼を、自転車で見送りに行った。
バスロータリーには、妻夫木くん主演の「南へ」という舞台の看板がどどーんと掲げられていて、その夜も余震が街灯を大きく揺らしていた。気分は、戦地へ旦那を送り出す妻さながら。
走り出したバスが視界から消えるより先に、涙で霞んで見えなくなった。
ひっそりした夜の街に、どうしようもなく無力な自分がいた。
今日は、今も仙台で活動を続ける彼のブログ記事を読んでもらいたい。
僕には書けないことだから。
以下、【あにまる★ぱーく~被災者支援とはなんぞや】(2013.2.21)より、全文転載。
★★★
最近の飲み会では異常に騒ぐ人間がいないので
もっぱら現在の支援活動についてのシェアリング
あるお宅でのワークはいつもお茶っこだけ
あるお宅ではその方だけでは抱えきれないくらいの畑の手伝い
ある意味その地域での何でも屋的な存在の自分たち。
確かにそこの地域は被災地と呼ばれる地域であり
実際に震災直後はマンパワーを必要とした緊急支援を行った
沢山の方がその地域に戻ってくることができた。
でもまだまだ仮設住宅に住んでる人がいて
家に戻ってきても寂しかったり不安な人がいる
一方すでに普通の生活を取り戻してる人がいる
その中でこれは被災者支援でこれは違う!
線引できるんかな?
線引すべきなんかな?
ボランティアってなんでも屋なんかな?
高齢化や過疎化の問題は潜在的にあって
震災でその問題が加速して表面化してきたのはわかる
けど一ボランティア団体としてどこまでできる?
いつまでその方達のお手伝いができる?
ゴールはどこにあるん?
そもそも被災者支援のあり方は?
県外からきてるスタッフがほとんどでみんな悩んでる
特に今年に入ってから何回もミーティングして
飲み会や食事のときでも話し合って
時には言い合いになって険悪になったりもする
『これは東北支援、被災地支援ではない気がする』
と言って去っていくスタッフもいる。
どうか光が見えてほしい。
寄り添うだけでは生きていけない。
これからどんどん変化していく。
★★★
Special thanks PAKU.
0 件のコメント:
コメントを投稿