カヌーが犬なのか、ぼくが犬なのか、
おじいちゃんの犬の散歩。
ぼくがおじいちゃんなのか、カヌーがおじいちゃんなのか。
静かに大人しく、おじいちゃん、思う。
川は勿論、陸だって流れ続ける方が楽なのだがなあ。
考えているようで何も考えないようで考えているようなふり。
昨日の寂聴さんの仏教入門書は目から鱗だった。そういえば昔フラれたときにぼくを救ったのは、たかのてるこさんの『ダライ・ラマに恋して』だったではないか。
「執着せずに愛する」ことを登場人物のカルマは言っていて、感銘を受けたもののその教えを生きているうちに実践することは至難の業であることをわりと早くに未熟者は理解&放棄し、
この頃のぼくはというと東京・中野「カルマ」という店に足を運ぶことが多くて‥、
まあそういう「たまたま」をまたまた馬鹿みたいに信じ続けた結果として、今ぼくはここにいるわけで。
因果、である。
そんなわけだから、ぼくときたら「だからどうした」の嵐にもみくちゃにされるのが常ってもんで。
サクラはもう見飽きた。
いつもあちこちにドタバタと動き回っていたので、こうしてゆったりと春を待つのは初めてで、目の前の景色より魅力的な場所がどこにも見当たらなくて、消極でなくむしろ積極的にここにいたくている。
ここから、世界中どこにだって行こうと思いさえすれば行けることもわかって、物理的にも精神的にも、
今、「ぼくはここにいる」。
いきものがかり、か。
いつも春は、ちぐはぐな心と身体を縫い合わせるのが大変であっちにもこっちにも迷惑をかけて自分自身も振り回されていたから。
突然、ムースの群れが目の前を横切る。
あ、エゾシカか。
家からすぐのこの川は、たまにビッグサーモンリバーになる。
なかなか吹っ飛ばない布団、か。
ぶっ飛びついでに、ぶっ飛ばない布団の代わりに今春のちょっとした決意を公開してしまおう。
ぼくは、
二度と来ない今年の春を余すことなく、「切に生きる」のだ。
※「切とは、切っても切れないこと、つまり今、自分がしていることに没頭しきることです。切実の切、大切の切です。
食べるときも、切に食べる。眠るときには切に眠る。愛するにも切、学ぶにも切であれ。
死後のことを思いわずらうな。今、生きているこの一瞬を切に生きれば、それでいいじゃないか。」
瀬戸内寂聴さん『痛快!寂聴仏教塾』より。
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