こんなはずじゃなかった。
ども、久々登場。ナチュラリストぶりっこの散財物欲王子です。
常日頃からシンプルに生きたいと願いながらも、科学技術の粋を結集した工業製品にまみれて外に出ることに喜びを感じてしまうぼくがいる。
世の中もぼくも、ちんぷんかんぷんである。
宮崎駿氏は、戦争反対なんて言っておきながらも、戦闘機オタク。そこと向き合ったのが「風立ちぬ」。
人は誰しも矛盾を抱えていて、それが「人間臭さ」や「人間らしさ」となり、魅力的な作品を生み出す元となっている。
例えば、カヌーで川下りをする場合。スタート地点までカヌーを運ぶには車が必要。
その車を動かすには天ぷら油で動く車もあるけれど、一般的には石油が必要で、エネルギー戦争による善良なる犠牲者はこの地球上に数知れず。
ぼくが積極的に車を持つことができずに燃費の良いカブでどうにかしのいでいるのも、ナチュラリズムに反することに目をつぶれずにいるから。
自分のものではないさまざまな車や人の世話には散々なって各地で宝物を見つけておきながら、‥何とも都合の良い話である。
甘ったれの自身、一番分かっていながら目をつぶってきて今日まで来ているのです。
そんなわけだから、それでもやるのであれば、ぼくらは覚悟を持って目を見開き、一生懸命に漕ぐべき、漕がないとならないのだと個人的には思う。
漕ぐことは即ち生きること。
3.11は、生の意味を問う手厳しい試験官だった。
多くの痛みが生まれ続けている中で、その痛みを和らげる行動が自分にもできることを知りながら、それをすればぼく自身も楽になることも分かっていながらそれでもぼくはカヌーを漕ぐために未知なる支笏湖へ被災地を飛び越えて向かった。
カヌーがあろうとなかろうと、人の生死には関係ない。なくても誰も困らない仕事を、あったら誰もが感謝する仕事よりも優先した。
カヌーは、「生きてて良かった」という感覚を思い出してもらえる可能性があって、それは今の時代にとっても大事なタイムマシンみたいな存在だと思う。
どうせやるなら、本気でないと。本気でないと、志半ばで散った悲しみたちに立つ瀬がない。
多くの悲しみや痛みの上にカヌーがある。それはカヌーに限らず衣食住、暮らし、生きること全般にいえるわけで。
ぼくらの笑顔はどこかの誰かの苦しみにつながっていることを知りながら、それでもぼくらは笑うのだ。
でも、できるならばなるだけ悲しみの少ないところに足場を置きたい。ベストは不可能だとしてもベターな選択を。これはぼくのエゴ。誰も傷つけないことは無理だと分かっても、痛みは最小限に食い止めて暮らしたい。
生きること。暮らすこと。愛すること。丁寧につくっていきたい。
何で漕ぐのか、何でガイドなのか、‥この頃、単純な質問を自分に投げかけ続けて自分を試している。
‥は、うっかり脱線してしまった。タイトルに戻らなければ。
アウトドアはお金がかからないなんて、真っ赤な嘘やでー。参った参った!
すべては【秀岳荘】のせいだ。いや、秀岳荘様のおかげです。
いつも人任せだった秀岳荘バッグをついに購入。うぐいす色?新色らしいよ。
我ながら買いっぷりの潔さに惚れ惚れする。値札もう少し見てよと、会計時にやっちまった感を出してみたりする。
お金の使い方、扱いの面倒臭さ‥、すべては親譲りということにしてしまおう。そう、それらは断じてぼくのせいではなく、血筋なのだ。
試さないことには語れない。道具について語りたいならば、投資せねば。
「自己投資を怠るな。」
これは矢吹全氏の教え。
どかっどどどんどん。人もお金も何事も、執着せずに愛するがよろし。それがなかなかどうして難しいのだけれど。
今日の燃料、君がくれたコーヒー。インスタントラーメン。
恵庭岳に登ったあの日を境に、食べる行為が面倒臭くなってしまっていて、今もそれが継続中。食べることが好きなぼくにはとっても珍しいことだ。
考えたいことが多すぎて、食べる時間が勿体ない。
うーむ。とりあえず、空っぽだった冷蔵庫に、最強発酵コンビである有機納豆と支笏原水仕込みの無添加味噌を突っ込んだから復活は近いはずだ。
夏終わりから玄米切らしているからかなあ。
0 件のコメント:
コメントを投稿