憲法違反を首相がするって、すごい話。
偉いつもりの人たちは、戦争で金儲けをしたい。命を鼻くそかなにかだと勘違いしている。
必要なのは、大切なのは、想像力、想像力。
大切な人の笑顔を一つでも知っていれば分かること。
非常に、ナンセンス。
ぼくらは戦争なんかする気ないよ。
テレビも新聞も、大手はみんなお金のこと馬鹿り。あほ臭くてたまらないので、ぼくはテレビを見ない。きっとこんなに人が集まっても報道はたいしてされないのだろう。
抗議をしている人たちの中にはぼくの知り合いもいるだろう。
写真は政策エッセイスト・まさのあつこさんの記事より転載↓
【365 閣議決定で「戦争する国」にするな!官邸前に集結した人々の怒り】
それでも何にも変わらずに、ぼくらの暮らしは回っていて、
戦争へ向かいたがるあほ国家と平和な暮らしとのギャップは、アクセスの良さと自然度の高さとのギャップが自慢の支笏湖のはるか上をいく。
頭がおかしくなりそうだ。
2011.3.11。
忘れられない。忘れてはいけないのだけれど。忘れたい自分もいる。
見たくないものを見た。
友だちが生きてくれていた。
困っている人、嘆いている人、失った人‥悲しみが沢山生まれた。
それでも、悩みに悩んだ末に、やっぱりぼくは三年ぶりの春を迎えに支笏湖へカヌーを漕ぎに行った。
なくても誰も死なない「カヌー」を選んだ。
「世界がどうなっても好きなことを奪われたくはない」という強いエゴが、きれい事吹聴者の本性であったことが露呈した。
世界の色が一変したというのに、ぼくは我儘なまま、何にも変わらなかったわけだ。
その事実を浮き彫りにさせた3.11が憎たらしくて仕方がなかった。
思えば、あの日をきっかけに、
どう生きるのかという、本質的な覚悟を問われ続けている気がする。
水温が上がれば、毎年ウグイたちは本能のままに産卵をする。
あれからぼくは、自分にしか見えない荷物を満載した重たいカヌーを漕ぎ続けて、四度目のウグイの産卵を今年もこうして見守っているけれど、
大切な人を守れる実際的な力は少しでも身についているだろうか。
明日がどうでも、日々を丁寧に生きる。これより他にすべきこともできることもしたいこともない。
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