カゼニモメゲズ、宇都宮→仙台。
「郡山」からダイヤが乱れ始め、「福島」で立ち往生かと思いきや、新幹線ヤマビコへの乗車に成功。いつの世も下剋上だ。何が起こるか分からない。希望を持って生きつづけよう。
映画の字幕翻訳家やバックパッカー、カヌーガイドには憧れたけれど、サラリーマンに憧れたことがない僕は、カヌーガイドになることはあってもサラリーマンになる努力はしたことがない。
やりたいと思ったら、僕は今すぐにでもサラリーマンになる。
朝、出勤中の慌ただしい街中を友人の母のママチャリでガシャガシャと走った。働きに出る人たちが街に彩りを与えていた。その景色がとても新鮮だった。僕には非日常的光景だったから。
(‥特別でも何でもない「移動」(「旅」と表現する方が分かりやすいかも。)が僕には「日常」であり、「非日常」、「特別」でもない。「非日常」なはずのものを「日常」に組み込んでいる僕自体は「非日常」?)
そんな中を僕は、【日本キリスト教団東北教区被災地支援センター・エマオ】でスタッフをしている友人の見送りをしてから、スーツも着ずにふらついていた。
優越感なんてないし、かといって罪悪感なんてのも皆無。みんな自分でやっているのだから。
岡本太郎は「何だ、これは!」と言ったけれど、僕は問い続けよう。「僕は何だ?」
昨日の宇都宮。大先輩の言葉が頭に浮かんだ。
好きなこと、やりたいことをやってどうにか今までやってこれているのは、世の中を回しているたくさんの人たちがいるおかげで、みんながみんな好きなことをやっていたらこの世界は回らない。
本流に逆行して生かされている僕には、その流れが汚かろうが臭かろうがどうにか流れてくれていないと困るのだ。水枯れした川を逆行することは不可能だ。「共生」。妙な話ではあるが。
依存度の高い彼女に依存されることに辟易しつつも、いつしか依存されることに依存している自分がいることに気付いたときと同じ、何とも言えぬ複雑な感覚。
「否定」も「肯定」も、大差ない。表裏一体で、紙一重ではない。切っても切れない家族のようなものでは?
捉え方次第でしかないが、流れに乗りながらもその水を「汚い!」と言うことが、大方の「市民運動」かもしれない。
水が汚い、ならば、どうするか。あなたは、僕は、どうしたいか。
3.11は、多くの人に水の汚さを見せつけた。
見てしまった、知ってしまった生物・ヒトは何をすべきなのか。
野口健曰く、「知ることは背負うこと」だ。
大きな荷物を若いうちに背負うことになったことに、何か大きな意味があるような気がするんだ。ないはずがないと思う。
本当はもっと他に背負いたいものだってあるのだけれどね。
まあ、その流れ自体がちぐはぐなところを流れているという点は否めないけれど。それは今の趣旨ではないので、ね。
サクラはまだだと話をしていたら目の前に満開のサクラ現る。
仙台も春でした。
今年は本当に春ばかり、ごちそうさまです。
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