どこまでが日常で、どこまでが非日常で、どこまでが仕事でどこまでがプライベートなのか、旅と日常の差異は?
僕にはそういう線があまりない。ない、というか、ふたつはひとつだ。切り替えスイッチとか、不自然だと思う。「仕事」の定義にもよるが。
曜日感覚も日にち感覚もあまりない。僕には数字よりも、どれだけ太陽を浴びれるかどうかの方が大事だ。
通年受ける質問。「今どこいるの?何してるの?」Where、Whatの法則には、夢(ワクワク)が内包しているから、何度聞かれても悪い気はしない。
最近はというと、When。「いつ来る?」とか、「まだいたの?」。これは現実だ。
僕も知りたい。
(C.W.ニコル氏)
この頃、珍しく食欲がない。珍しい。お金がないから、ということだけではない。
顔の色も少し落ち着いて、脂ギッシュ感が薄れてきた。
春は、心と身体の縫いあわせ期間だ。
一点集中夢中盲目型の僕には、なかなかいろいろ難しい。
心が一点に集中していないから、させていないから、あれこれ、行き届かなくなる。
目の前の人やことだけに集中できなくなるので、いつも通りにできないことが多くなる。
集中しているときは夢中だから、その幸せにも気付かない。夢中状態が終わったときに初めて分かる。そのときに気付いていたらそれは夢中ではありえない、か。
11月も、縫いあわせ期間だ。
一年十二ヶ月。そのうち二ケ月が少し勿体ない。不完全燃焼。効率的ではない。といっても、効率的に生きたいわけではないし、十二ヶ月完全燃焼していたら身体が持たない気がするし(完全に実行できていないから分からない。試したい。)、移動による恵みがあることも確かな事実なのです。
揺らせば揺らすほど、たしかなものがはっきり分かる。揺らさずに分かればいいのだが。
フェリーの揺れは、縫い合わせ作業を楽にする「まち針」みたいな存在だ。
昨日、夕方になってからようやく荷造りを始めた。
思いのほかさくっと終え、今日、出発する気でいた。
‥今朝、起きるまでは。
「意志薄弱な!男の子やろ!(ある人の口癖)」と責められるだろうか。
目覚めて二秒、信頼しきっている直感君がびしっと判断を下した。今日は日が悪い。
まあ、なんというか、僕にもいろいろあるのです。
的確なのは「僕だから、いろいろあるんだよ」、か。
こんなことを宣言する必要もないだろうけれど、みんな分かっているだろうけれど、
いろいろ、ここに書き続けているけれど、どこまで出しているかは僕しか知らない。まあ、僕も知らない。知ろうとしていないし。
ここを見続けてもらえば、僕という人間のことがよく分かるようにはなっている。会うより本質が分かる、とも思う。
「文章を見るまで、何も考えていないただの馬鹿だと思っていた」と言われたことも何度かある。‥改めて思えば、失礼な話ではないか。それでも笑えてしまうのは、僕が変だからか友人たちが変だからか。
僕は考える馬鹿だ。考えても馬鹿だ。どうしようもないのだ。
でもね、本当の僕は、やっぱり、ここにはいないんだ。いくら時間をかけて、心を傾けていても。
「僕」、「僕」うるさいね、しかし。
何が本当かも分かっていないかもしれないけれど。
現実世界を歩いているんだ。社会の中で、文句を言いつつも、それでもどうにか社会にしがみついていこうとしているんだ。
ここから、本当の僕に惹きこもうとしているのだろうか。
まあ、どうでもいいことばかり今日もつぶやいているけれど、
全然アースデイに触れていないけれど、アースデイに行ったんだ。
いろんな人と喋ったよ。「同時多発同窓会」みたいだった。
モデルごっこをしていたら、遠藤ヤットに似てるとまた言われたよ。
今日もとっておきのカフェを教えてもらったよ。
愛おしい時間をつなぎとめずに、僕は行く。
愛おしい笑顔を、これから先もつなぎとめていきたいからだと思う。
また会いたい人たちに、今度は何を持って会いにいけるだろう。
「いろおに」だっけ?凍ったり解除したりする遊び。あれ何だっけか。「フリーズ」とか言ってさ。あ、「こおりおに」だ。
そういう技が通用しないことはもう分かったから、歩くんだ。僕らは歩き続けるんだよ。
ヒトは皆、ひとところになんていられない。物理的には可能だとしてもね。
帰り道。
雨だから自転車を置いて電車に乗る、というのは、チルタ(僕の自転車の名前。押上生まれ北海道育ちだからアイヌ語なんだ。)にかわいそうで、僕は久しぶりに雨に濡れることにした。ぽつんと佇む愛車を想像したら、そんな残虐行為はできないじゃないの。ただでさえ、半年別れるわけで、寂しくてチルタは死んでしまう。
なぜか、途中、道に迷った。わざと、迷った。確信犯。
実のところ、僕は濡れたかったのだ。何が混じっているのか知れない冷たい雨に濡れそぼり、一人で自転車を漕ぎたかったのだ。
「ああ、こんなサンダルなんかで走って足を滑らせてしまったらどうしよう。こけたら、車にやられるかな。死んだら、葬式では誰が泣いてくれるだろう。みんなの前では泣かずにひとりで静かにじっと泣いてくれる人がいるかな。いるならそれは誰であって欲しいのだろう」とか、くだらないことを考えながら、まだまだ生きるつもりの僕は細心の注意を払って、この前きれいにしたばかりの自転車を雨に濡らした。
馬鹿なことをやりたかったのだ。簡単にできる、ひとりでできる馬鹿なことを。
「オレ、何やってんだろう」と、思いたかったのだ。
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