一人で見る夕日も、家族と見る夕日も、尊いわけで。家から五分のこの景色、この日のことをぼくはこの先何度でも反芻するだろう。
打ち寄せる波。乗るにはキツいが見るには飽きない。音も良いのだ。
カヌーにしか乗らないと、波は歓迎し難くなるが、そもそも良いも悪いもないわけで。ご都合主義を脱するには、水だけでなく陸からも眺めることを、歌い手から教わった。バランス。
数日、クリエイティブな方々とご飯を囲んだ。
水は癒す。洗い流す。たゆまなく、生み出し続ける人たちの心も浄化す。
彼らが目の前で生まれ変わっていくのを眺める。支笏湖はすごい。与えて与えるのみ。できないことはしない。媚びない。ただ、呼吸をしている。優しく厳しく、くるくると忙しい。美しい人に翻弄されるのも、嫌いじゃないし。
ぼくはカヌーに誘う。
文化人にこそ、カヌーで感じてほしいと常日頃思っている。アウトドアという言葉がカヌーをカテゴライズすることへの違和。この感覚は最も身近な文化人、マフィン屋店主と出会わなければ抱くことはなかった気がする。僕にとってのカヌーとは何なのか、よく分からないままに五里霧中それしかないから手離すことなんてできないままに漕ぎ続けてきたが、
遅まきながらここ数年、ようやくエッジが掴めてきている気がする。思考は日々更新される。
カヌーには大切な人と乗りたい。遠くの友に手紙を書くように、なるだけ丁寧に通わせたい。
文化とアウトドアとのあわいにカヌーはある。水と陸のあわいだし。コミュニケーションの手段でもあるから、人と人のあわい。
暮らしと旅のあわい。重力と無重力のあわい。
アウトドアのアの字もなかった人が、一ファンが暮らす支笏湖に、ペンネンノルデに出会い、通い、湖と心を通わせていき、いつしかそれが歌になる。
そんな素敵な物語があるなら味わってみたいよ。幸い、それは目の前で綴られた。
出会うこと。一緒に過ごすこと。心を寄せること。
カヌー。担げなくなるまで。
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