2016年10月29日土曜日

いつもカヌーに積んでいる気持ち

外にいるだけで消耗する季節がやってきた。


それでも、ぼくらは、なるだけ、精一杯、ひたむきに、カヌーを漕いでいる。

それは誰のため?
お客さん?それもある。せっかくなのだから感じさせたい。

かのあのため?それもある。心配をかけまくってきた恩がある。

でも、きっと、誰かのためだけでは漕ぎ続けることはできない。
漕ぐこと。それは誰より何より、ぼくら自身のためなのだろう。
漕ぐことでここまで生かされてきた。

漕ぐこと、暮らすこと。水と陸。夢と暮らし。愛と夢。自立と共有。
相反する二つの世界をカヌーはゆるやかに繋いでくれるのだろう。
動力は技術より何より、覚悟だったり、精神性、誇り。
対自分、対ヒト、対水、対森‥。言葉を介さずともあらゆる[生命]とコミュニケーションを取るための道具として、カヌーより適した乗物をぼくは他に知らない。
年がら年中崇拝しすぎて囚われている「言葉」というツールが無力化する。水の上では「感じる」だけが正解。信仰してやまない神さまが地に落ちるような。そういった敗北、背徳感がまたたまらなく良いのだ。

訳の分からないことはいくらでもある。
それでも、全部ひっくるめても、何がどうであれ、この世界は美しい。この世界は素晴らしいと、ぼくは肯定したい。ぼくを肯定されたい。
生きていて良かった。何よりも気持ち良くさせてくれるカヌーという乗り物にめぐり合えた者の果たすべき役割。
すべてが一極に集まりつつある。ぼくらは幸運だ。

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