2013年4月12日金曜日

高尾山がすきだっ!


たまには重力に逆らいたくもなる。でも、あくまで気軽にいきたい。ローリスクで楽しみたい。
「何してんだろう」と自問自答をせずに済む場所へ電車で向かった。

標高599M、高尾山。小学四年生から始まった新宿の田舎的超少数精鋭型小学校・高学年遠足の場である。学校的にはR小学四年生ということか。
四年生の時は手を引っ張られ、五年生で余裕が生まれ、六年生になったらみんなを引っ張る。
僕はここで育てられたわけだ。
ミシュランがなんだ。ここは何も変わらない。いや、トイレはめちゃくちゃきれいになった。

夜のムササビ観察の記憶も印象的だ。



「耳をすませて 歩いてみれば 」

(by七尾旅人「リトルメロディ」)

聞こえたのは、とことんpeaceful sounds.

写真のことはよく分からない。けれど、どんな写真が好きかは、はっきり分かっていて、こういう写真は僕にしか撮れないという小さいけれど、断定的プライドもある。

来れないと思っていたはまだくんが突然現れた。
友人たちの驚く顔を見るのが好きだ。


僕が撮りたいのは、景色ではない。自転車でもカブでもカヌーでも電車でもない。人だ。誰でもよくない人だ。美しい自然とか、好きだけれど、山とか畑とか海とか川とか大好きだけれど、前提条件として人がいないと僕は駄目だ。誰でもよくない人の前では、青い星、地球もかすむ。

人のいないこの世に未練のある人なんて逆にいないか。

学生のときなんかは、景色だけだった。
屋久島実習を振り返ったとき、友人の写真を見て僕は気付いた。僕は撮りたいわけでもない風景を何となく切り取っていて、一方彼は構図がどうとかではなく、僕の見たことのない友人たちの様々な顔を切り取っていた。僕の知らない友人たちの顔を写真の中に見た。同じ時間を過ごしたのに、僕の「屋久島」と彼の「屋久島」は明らかに別の場所だった。

そうか、僕は人にファインダーを向けるのがこわかったんだ。
それから意識的に人にピントを合わせるようになった。最初はぎこちなかったかもしれない。でも、もう僕はそこにしか合わせられなくなっている。

「僕」はそっちの方が断然向いていると思っている。



本当はもっといい写真があるのだけれど、出し惜しみをしてそれなりな写真を選んでいる僕は、だから「僕」なのだろう。

いっとう大切なことはやっぱり出さないでしまっておくに限る。

血や肉、排泄物はいくらでも晒せるけれど、宝物は絶対出さない。表現者は、宝物を出すのか?
だとするならば、やはり僕は表現者崩れでしかないのだろうか。


これはスナフキンの言葉。

「なぜみんなは、ぼくをひとりでぶらつかせといてくれないんだ。もしぼくが、そんな旅のことを人に話したら、ぼくはきれぎれにそれをはきだしてしまって、みんなどこかへいってしまう。そして、いよいよ旅がほんとうにどうだったかを思いだそうとするときには、ただじぶんのした話のことを思いだすだけじゃないか。そういうことを、どうしてみんなは、わかってくれないんだ」


『ムーミン谷の仲間たち』より。


選んだのは六号路。水と共に歩く。ここは歩かないでいいところですが。

頂上に着くと、なにやら周りが騒がしい。


何だろうと群衆にまじって見ていたら、「ヒサイチフッコー」の言葉が曇天の空に響いた。

そろそろ一ヶ月。


何を思って見ているのか、わざわざ聞くことはしなかった。



頂上で、おにぎりを食べた。たかこがはりきって握ってくれた。
持参した海苔を絶賛されて驚いた。燃焼音の小さいトランギアのアルコールバーナーでちんたらとお湯を沸かした。やっぱり僕はスウェーデン生まれのこいつが好きだと改めて考えるに十分なだけの時間がかかった。早くしろよとせっつく人もいなかった。そろそろジェットボイルに手を伸ばす気も満々だけれどね。炎は見えないけれど、手をかざすと確かにあたたかい。僕ら人間の想いにどこか重なる、見えない炎。炎を見ると、どこか懐かしく、どこまでも落ち着く。太古の記憶が僕らの血にも通っているからだろう。
「宗教は?」と聞かれたら僕は「星の王子さま」教とでも答えようかな。
そう、燃やし続けていたいものがあるんだ。
ようやく沸いたお湯で、少し手抜きをしてドリップコーヒーを淹れた。あのチョコは間に合わなくて準備できなかったけれど、クッキーを食べた。かりんとうも食べた。

気付いたら、三時間が経過していた。着いた時には座る場所を見つけるのに苦労するほどだった蜘蛛の子は、サクラが散るより先に散っていった。


ありきたりな言葉しか出ないけれど、
今、この瞬間も、そう遠くないどこかでは、血が流れ、赤ちゃんが泣き、声が上がり、誰かが死んでいる、放射線だって降り続いていて、明日だって分からない。ウグイスが鳴いて、恋人たちがセックスをしても、亡くなった人は帰らないし、悲しみや葛藤は続く。

分かっているよ。

でもね、今この瞬間、ぼくのすぐそばに、“へいわ”があったよ。

分かってほしい。

一瞬だけれど、 たしかなじかん が、流れていたよ。



そんな愛おしい、なにものかを抱きしめる術を持たない僕はただ、いつも通りの僕でいることにしたんだ。

肌寒かったけれど、みんながなかなか腰を上げなかったのは、見えないそれでつながっていたからじゃないのかな。なんて思うことにしてみているよ。


春が上書きした高尾山。ありがとう。



0 件のコメント:

コメントを投稿