2018年3月18日日曜日

「当たり前」を取り戻していく時代

網走といえば‥


北海道立北方民族博物館を外すわけには行きません。
コチラはウリチ人による白樺樹皮製容器。

かのあブログバーチバークカヌーでも触れていますが、手の内の樹皮細工が高じて、手の内から飛び出して、むしろ手のひらで包むどころか身体全体包まれる大きさのカヌーをつくった稀有な方がいまして。
詳しく知りたい方はコチラ→juli/ユーリさん。

彼女、カヌー乗ったことないんです。
白樺樹皮という入口を深めていくと、たどり着いたところがカヌーだったようです。

自分で使うものを自分でつくる。知らず知らず、思いまでも編まれていくようです。
時計を巻き戻すように、自分に還っていくような行為なのかなと、白樺樹皮を編まずに妄想してみているのだけれど。
きっと、それはかつて「当たり前」だった人の営み。
「リサイクル」とか「モノを大切に」とかそんなことわざわざ言葉にしなくてもきっと、誰もが慈しみ合っていた。
時間を。手間を。労力を。人を。いつからすべては使い捨て、替えがきくようになったのか。

「当たり前」ってのは時代がつくるのか、生息環境がつくるのだろうか。

何かを見たり聞いたり体験したときに、心がどう動くか、同じような感動をしている人に出会うと、ホッとする。大事にしたいと思う。
何が悪いわけでもないけれど、行動ひとつに人柄は出る。言葉は誤魔化せる。行動で見よう。行動で表現しようと言うためにこうして毎日言葉を使うぼくは何だろう。

「当たり前」って何だろう。

北海道×バーチバーク(シラカバ樹皮)カヌー。
出会うべくして、たぐり寄せあった、そんな気がする2018春。

水は陸を分断するのではなくつないでくれている。
北への入り口は、北にある。北にしかない。
手の外に手離してしまったあれこれを手の内に取り戻していく、思い出していく時代になっていくのだろう。

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