仲間が路上から国会に出た。
思いの詰まった言葉。
政治家の方々も言葉の使い方から何から見習ってください。
「私たちは、学び、働き、食べて、寝て、そしてまた路上で声をあげます。
できることをできる範囲で。日常の中で。」
ぼくは2011年の混乱の中、覚悟を問われ、なくても誰も死なないカヌーを選んだ。今は必要とされなくても、いつか必要な時代が来る気がした。
この時代に浮かぶ重みには凄まじいものがある。ぼくのカヌーは重たい。沈むんじゃないかといつも不安だ。
しかし、これでいいのかという問いの答えは、毎年やって来る友人たちが行動で示してくれる。
これでいいのだ。ここにいていいのだ、と。赦し。
仙台でずっと踏ん張ってきた友人たちがいて、しんどいだろうに、ぼくは彼らに逆に救いの言葉をかけてもらって。自分が大変なときに、人を気遣う言葉を掛けられる人をぼくは尊敬してやまない。ぼくの友人たちは皆素晴らしい。かなわない。
冬はまともに働くこともせず路上に立った。生命より尊いものはない。家族に感謝。
2011年、揺れに揺れたこの時代を生きる人間として、夏にエゴを貫いた分を還元せずにはいられなかった。
路上で叫んでいたら、好きな人ができた。できたというか、いたことに気づいたのだけれど。
守りたいのは、その人の笑顔。暮らし。その人が夢を見れる環境。
この路上の学びは、死ぬまで取り組み続けるに値するぼくの、いちばん大切な仕事となった。
叫んでいるだけでは守れる気がしなくなって、ぼくは路上ではなく日常で暮らしの唄をつくることにした。
ぼくは暮らしという切り口から平和を唄う。
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